20.恋の始まりは甘やかに






 栄光の船出を記念して手渡されたグラスの中身を一息に呷る。
美味しいわけがない。
は飲み干すに至らなかった衝撃的な味のそれを海に吐き出そうとして、ベロニカのみわくのリボンに体を絡め取られた。
いばらの鞭は棘が刺さって痛かろうという彼女の愛を感じる。
攻撃力はよくしなるリボンの方が断然高くて当然痛いということを早速教えてあげなければ。
は焼けるような喉の痛みと締め付けられた体の痛みにのたうち回りながら悲鳴を上げた。



「毒!? もしかして今毒飲ませられた!?」
「失礼ね。あんたが船乗るたびに酔うから、あたしとセーニャが船酔いに効く薬を調合してあげたのよ。これからは外海に出るから、きっと今よりもっときつい旅になるはずよ」
「お口に合いましたでしょうか」
「味見とかした?」
「酔わないあたしたちがどうして試すの。草の味しかしない不味い飲み物いつも飲んでるんだからこのくらい我慢しなさい」
「うう・・・なんか違う意味で気持ち悪くなってきた・・・。目の前も真っ白になってああ、薄れゆく私の意識・・・」



 薬の原材料は何だろう。
マーマンの生き血やしびれクラゲの触手とか入れられていないか心配になる。
どうせ飲むなら人魚の生き血の方がまだマシと呟きかけ、は養い主のありがたい航海話を思い出した。
デルカダールいち水辺が似合う男だったホメロスは、彼の行軍の途中で見聞きした話をよく語ってくれた。
海には魔物が棲んでいる。
名を知られ討伐対象となっている醜悪な魔物だけではなく、美しい姿をした魔物もいるという。
はやっとの思いで甲板に座り込むと、効きすぎた効能を前に満足げにふんぞり返っている山育ちの姉妹を見渡した。



「海で唄が聞こえてきたら、すぐに逃げなきゃいけないの」
「急にどうしたの。天使の鈴鳴らす?」
「私の元パトロンは海にはちょっと詳しかったんだけどね、その人が寝物語で語ってくれたわけ。波間に響く歌声に気を付けろ。振り向いた先に揺蕩う手に触れてはいけない。体だけを置き去りに、心は泡になってしまうって」
「おいおい、オレはそんなおどろおどろしい話聞かせたことはないんだけど」
「カミュはパトロンじゃないでしょ。ほら、こうやって白い霧に覆われてたらなんかそれっぽいこと起きそうじゃない? ていうかマジで気持ち悪いんだけど」



 効きもしないただただ不味いだけの薬を飲まされて、ここのところ良いことが何もない。
舟が巨大な岩にでもぶつかったのか、ずぅんと大きな音を立て激しく揺れる。
外海とは恐ろしい場所だ。
歴戦の船乗りアリスですら難儀するとは、これから先何度酔えば良いのだろう。
は手頃な体にしがみつくと、ぎゅうと目を閉じた。
霧のおかげで何にしがみついているのかわからないが、先程声が聞こえたのでどうせカミュだろう。
この髪のサラサラ具合はきっとあれだ、シャワー浴びたてだからだ。
あの男は存外きれいな髪質をしている。
昔のままならば、今もおそらく鷲掴みにはしにくいはず。
はカミュ(仮)に抱きしめ返され、あれと呟き首を傾げた。
カミュよりも幾分か筋肉質だ。



ちゃん、もう大丈夫だよ。外も明るくなったし揺れてもないから平気だよ」
「・・・カミュではない?」
「うーん、はずれ。なんだかごめんねカミュ、役得で」



 このまましばらくの腹に顔を埋めたままでいたい。
怖かったよね、大丈夫だよとずっとに背中を撫でられていたい。
今こそ意識が遠のいてくれないだろうか。
姉妹特製の薬に毒蛾の粉をトッピングすれば、ひょっとしたらイケるかもしれない。
は素早い動きで顔を上げると、例のグラスを探した。
倒れたグラスから零れ出た薬は、床が最後まで美味しくいただいていた。




























 酒場のカウンターで聞いていた話の登場人物、いや、登場魔物がまさか現実に存在するとは思わなかった。
話して聞かせていた本人も実在するとは思ってはいなかったはずだ。
どうしよう将軍、私見つけてしまった。
美しい容姿、どこまでも響き渡りそうな綺麗な声。
そして、人ではなく魚の尾ひれ。
マーマンと呼ぶには差し支えのある美しい半身魚が目の前にいる。
驚きで声も出ないとは、まさに今ののようなことを言うのだろう。
の逞しかった胴をちょいとつついた。
山育ちのには、人よりも美しい人魚の姿は刺激が強すぎたのかもしれない。



「ふわ~ビックリ。人魚って本当にいたのね。もたまにはほんとのこと言うのね」
「まあ、あなたは私たちのことを知っているのですか!」
「まぁ良くない意味で・・・。私の知り合いも海で仕事してたから・・・」
「そう・・・、だったらキナイを知らないかしら! 荒波のように男らしく潮風のように爽やかで、海のように大らかな漁師なのですが!」
「わ、私の知り合いは一介の将軍なのでキナイさんはちょっと・・・」



 この世のどんな宝石よりも美しく輝く瞳を向けられて、なるほど確かに体を残して心は奪われてしまいそうだと納得してしまう。
の背後にそそくさと隠れると人魚から間合いを置いた。
ベロニカやマルティナはおとぎ話の恋物語のようだとはしゃいでいるが、人と人魚の恋などおとぎ話でもハッピーエンドにはならないはずだ。
人魚の生き血を求める人々がなぜいるのか、マルティナたちは知らないのだろう。
人魚は、人から見れば不老不死とも呼ばれる長い寿命を持つ生き物だ。
ロミアと名乗った人魚歴の長そうな彼女がいつから好いた男を待っているのか、まず経歴を訊くべきだと思う。
女の子に安易に歳を訊いてはいけないが、世の中には年齢確認が必要な場面は必ず存在する。
デルカダールの飲食店で働いていたにとって、童顔の客に酒を提供する時ほど緊張する瞬間はなかった。
旅の途中でもこんな場面に出くわすことになるのなら、店から年齢確認プレートを持ってくるべきだった。
人生何が必要になるかわからない。
ちなみに持ってきたところでダーハルーネに置き去りにしていたので、荷物の中身をホメロスに検められて呆れられていたことだけは現在回避できている。



「ふむ、浮かない顔をしておるの、は」
「う~ん、人の色恋に首を突っ込むのは気が引けて・・・」
「オレも同感。こういうのは大抵ろくなことが起きないもんだ」
「おぬしら、歳の割に老練した面構えをするんじゃな・・・。とはいえ姫たちは乗り気じゃ、協力してやってくれんかのう」
「まあ、キナイって奴の様子教えるだけで海底王国とやらに行けるんなら悪い話じゃないんじゃねぇの? そいつが住んでるって村は良い真珠が採れるって有名なとこだし、それに真珠もつけさせてくれよ」



 ソルティコで贈られたばかりのサンゴの髪飾りを指さされ、はああと声を上げた。
繊細な造りの髪飾りにも守備効果はあるらしく、海上戦で受ける怪我の数も減った気がする。
これに真珠もつければ、守備力も美しさも更に跳ね上がるはずだ。
非戦闘員に施すホイミの回数は少なければ少ないほどいい。
長い航海で積み込める薬草の量にも限りがあるし、船内栽培の環境が整うまではひたすら防備を固める戦法を取っていきたい。
ロミアの力で座礁していた船も直ったらしく、再び船に乗り込む。
たとえよぼよぼのしわしわおじいちゃんの姿になっていたとしても、キナイとやらには存命でいてほしい。
はセンチメンタルな気分に浸りながら、どこまでも広がる大海原を眺めていた。





Back  Next

目次に戻る