公主様の帰還     4







 皖へ行きたいと申し出た時、夫の表情が気色ばんだのはなぜだろう。
駄目だと拒絶したかったが、やむを得ず許したように見えた。
まるで拒絶したい理由を悟らせたくないような、明朗で曲がったことを嫌う彼にしては珍しい歯切れの悪さだった。
凌統が知りうるすべての事象について共有できるとは思っていない。
彼の悩みや苦しみは取り除いてやりたいし、ともに越えていきたいとはもちろん考えている。
だが、凌公績という男は、曹のただひとりの夫である前に孫呉の社稷を支えるかけがえのない将だ。
軍や国家にまつわる機微な情報を彼は握っており、外部へ漏れないよう守るのが務めだ。
だから、たとえ相手が愛する妻であろうと口にすることはできない。
表情にすら見せてはならない。
今回は、冗談で誤魔化せないほどの有事なのだろうか。
は私兵らと訪れた皖の商家の前でガラクタもどきの荷解きを進めながら、凌統との別れを思い出していた。
やたらと気を付けろと念を押されたことにすら、意味があるように思えてならない。



「いや、それは単に姐御が羽目外さないか心の底から心配してるだけですよ。姐御、俺らも肝冷やすような無茶なさるから」
「ま、そうなってもいいように俺らが姐御をお守りするんですけどね!」
「姐御がちょっぴり厄介なお方で良かったっすよ! おかげで俺たち姐御の子分として再起を図れたんすから!」
「はっはっはっ、随分な女傑のご様子」
「おうよ! なんてったって姐御は自室をまるごと灰にするようなお方よ!」



 まだ言っている。
まだ言われている。
灰にはしていないのだ。
少し焦がしただけで、先だって改めて様子を見たが臭いが気になるだけで充分に住める部屋だったのだ。見知った人々ならまだしも、見ず知らずの商人にまで誤った武勇伝を吹聴してほしくない。
商人の視線もなにやら先程とは違ったように見えてきたではないか。



「どうかお聞き流し下さい。恥ずかしい限りゆえ・・・」
「いいえいいえ! その手のお話はどこの国にもあるものですよ! それでこちらはどなたへ渡せばよろしいでしょう」
「かつて虎豹騎を率いておられた方の元が良いかと」
「では寿春の曹休様を通して許昌へ運ばせましょう。あの方は情に厚い御仁と聞きますので」



 下取りの代金を私兵たちに分配し、暇を与える。
引き取ってもらうのに金を払う必要があるかもしれないと危惧していたが、収入になるとは思いもしなかった。
相変わらず市井の感覚が理解しきれていないようで悲しくもなる。
は散らばっていった私兵たちとは真逆の方角へ歩き始めた。
皖はまだ、凌統が慌てるような状況にはない。
人々の行動も平穏そのもので、血の気が多い現場に目敏い私兵たちも何も気付けていない。
気のせいだったのだろうか。
ただの思い過ごし。
私兵たちが口を揃えて言うように、少々活動的なこちらを案じていただけなのだろうか。
彼は、本当はどうしてほしかったのだろう。
どうすべきだったのだろう。
はぱたりと足を止めた。
前方から何者かが、真っ直ぐこちらに向かって駆けてきていた。

























 の安否を確認した。
周魴から報告を受けた凌統は、ふうと大きく息を吐くと腰を下ろした。
行くなと言えず、思わず顔では訴えてしまったがに想いは届かず、曖昧な笑みで誤魔化したまま皖へ送り出してからずっと不安だった。
私兵たちにはくれぐれも用心してくれと念は押したが、の過去の戦歴から『姐御の旦那が姐御可愛さにやたら心配している、仲睦まじいことで何よりだ』と安直に考えていそうだ。
まったくを制御できていない。
陸遜にそう愚痴を零すと、当然ですと苦い顔で同意されたのがせめてもの慰めだ。
彼も彼で遠縁の馬鹿娘とやらに手を焼いているらしい。



「とはいえ、周魴はの素性は知らない。俺も迎えに行ってくる」
「くれぐれも用心して下さい。策が成っているとはいえ、油断はできません」
「わかってるっての。にしても、なんだっては皖なんかに? 私兵どもに美女漁りに行きたいとでも焚きつけられたかね」
殿はそのあたりは寛容なのか? 意外だな・・・」
殿ご自身が側室の腹から生まれた方ですし、抵抗はないのでしょう。案外凌統殿の奥方でも探しに行かれたのかもしれませんよ」
「正室が自ら? どうして」
「私の妻の言葉を借りるわけではありませんが、縁戚というのは兎角厄介なものなのですよ」



 それら煩わしさも私の妻への愛を前に乗り越えたのですが!
隙あらば愛妻との話題にすり替えようとする陸遜に適当な相槌を打ち、出立の支度を整える。
皖へ向かうにあたりたちはやたらと大荷物だったが、あれは何だったのだろう。
拾い物を売りに行くとだけ聞いて中身を確認しなかったが、皖まで行く必要があったのだろうか。
商人たちはもちろん建業にもいる。
ああそういえばと、朱然がぼそりと呟く。
まずいかもしれない。
そう続けた朱然の独り言に、凌統はなんだいと詰め寄った。



「甘味処で聞いたんですが、殿は許昌に出入りする商人の所在を訊いていたようです。今、策の都合で商家の動きも周魴が抑えています。殿がもし皖の商人と取引をしていて、売ったという荷が魏に関係するものだとしたら、周魴は殿を利用します」
「・・・その荷、十中八九曹魏のものです。鑑定をしたのは私ですから」
「陸遜、なぜそんなもの殿に」
「私たちにとっては売値がつかない襤褸でした。けれども宗室である殿が見たら、たとえ毀れていても価値のある逸品だったのでしょう。殿と同じ価値観を有しているのは私たち孫呉の人間ではなく、寿春の曹休・・・。そして今、曹休は」



 曹休は人を疑うことがない素直な男だと、は言っていた。
懐かしい武具を寄越してきた親切な人物へ礼をしたいと、曹休は周魴へ申し出るかもしれない。
を出してはいけない。
を出せばすべてが終わる。
に何も気付かせることなく閉じ込めておかなければ、孫呉渾身の策略が水泡と帰してしまう。
やはりを皖へ行かせなければ良かった。
凌統がやり場のない怒りを机へぶつけようとした直前、姐御の旦那ぁ~と情けない叫び声をあげた塊が部屋に転がり込んできた。



「だ、旦那ぁ! 凌統様ぁ!」
「あんた、の私兵じゃないか。どうしたんだ、は」
「そ、それがあ・・・。なんかよくわかんねぇんすけど姐御が突然激昂して、周魴とかいう奴に幽閉されちまって・・・。俺は凌統様に知らせる係で、残りの連中は姐御奪還しようと機を窺ってます」
「それで、殿は今どちらに?」
「石亭です。周魴って奴は孫権様の部下なんすよね? 味方が姐御を捕まえるって意味わかんねぇっすよ!」



 裏切者って何ですか、なあ凌統様あ!
汗と涙だらけのぐしゃぐしゃの顔で見上げてくる私兵から目を逸らした凌統は、苦々しげな表情を浮かべた。





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