見取り図だけは知っている




 城壁の上が妙に騒がしい。
もう少し右だ、いや前だと嬉々とした声で指示を出している将と、彼の望むような配置にすべく何かを動かし続けている兵たちの姿が目に入る。
何かと称したのは、彼らが持ち上げているそれの正体がわからないからだ。
は向かいで筆を走らせている曹丕に、兄上と呼びかけた。
兄の詩作の進捗など知りようもない、詩才は自分にはないものだ。



「兄上」
、しばし待てぬか」
「あの者たちはいったい何をなさっているのでしょうか」
「お前、まさかこの私より先に仕上げたのか? そも、紙はどうした」
「先程通りすがりの方に差し上げました。なにやら神妙なお顔で呟かれて、指もせわしなく動いておられていたので」
「その者、正気か?」
「さあ・・・。着乱れて少々汚れた身なりをしておいでだった気はいたします」



 今日は天気が良いからと季節を愛でるべく、散策がてら妹を外に連れ出した。
書を読み武芸にも興味を示した賢妹だ。
きっと父や弟、そして自身のようにいつの日か詩にも目を向ける日が来るはずだ。
そしてその才を初めに開かせるのは、を最もよく可愛がる兄(※自称)である曹子桓でなければならない。
そう心に決め真っ白な紙を持たせ四阿に腰を下ろすまで、下ろしてからの数時間。
を放置していたつもりは全くない。
少々自身の詩観に没入し視野が狭くなっていた時間があったことは認めるが、確かに妹はずっと目の前に座っていた
一度ちらりと顔を上げた時、げっ曹丕殿と悲鳴を上げ慄く夏侯淵の倅と目が合った気もしたが、あれはおそらく幻覚だ。
まさか妹が夏侯覇を身代わりに座らせ、兄の暖かな見守りの目を欺いている隙に周辺を単身散策するはずがない。
曹丕は紙の一枚にも触れていないの白い手を見つめた。
つうと、一筋の赤い線が肌を伝っている。
それは何だ。
思わず飛び出た荒々しい声に、が首を傾げる。
視線の先に気付いたが、ああと呟き滲み出た血を拭い取る。
随分と豪快な処置をする。
母が見たら卒倒する。



「先程の方はとても急いでおられたゆえ、束を渡した際に切ってしまったのやもしれません。それよりも兄上、城壁の兵らは」
「私はどれよりも何よりもお前の身を案じている」
「わたくし本人が気付かぬ程度の傷だというのに・・・」
「・・・あれは父の部下が新たに考案した兵器らしい。風情には欠けるが、あれで許昌や陛下の御身を守れるのであれば致し方ない」
「兵器とは奇妙な造形でございます、どのようにして使うのか兄上はご存じですか?」
「お前が使う日は来るまい。時に
「はい、兄上」
「夏侯淵の倅だが、もう少し労わってやれ。あれがお前の代わりなど務められるはずがなかろう」
「やはり文烈殿にお願いすべきでしたでしょうか」
「そうではない。・・・詩作がつまらぬのならば、無理をせず初めからそう言えば良いのだ。次はがやりたいことに付き合おう。それで良いな?」
「嬉しゅうございます。では兵器とやらを」
「それは許さぬ」



 好奇心旺盛なをひとたび兵器に近付けようならば、彼女は絶対に触れる。
慣れない物に手をかけて切り傷とは比にならない大怪我をすれば、兵器の制作者もただでは済まなくなる。
父に、が兵器に興味を持ってしまったと具申しておかなければ。
曹丕はの指に布を巻きつけると、恨めしげに城壁を見上げた。






















 気になって仕方がなかった城壁の兵器とやらに向かって、慎重に石段を踏みしめる。
宮殿の階と違う急な段差に戸惑うが、いつもよりも足を高く上げれば苦しくなくなった。
最後の一段を登りきり、ふうを大きく息を吐く。
許昌の外に広がるのは見渡す限りの荒野だ。
うっすら遠くに見える街並みは宛だろうか。
行ってみたいような少し怖いような、きっと父は諾と言わない。
行かない方が周りは安堵するだろう。
は確証の出ない推測をそれきり胸に仕舞うと、目の前の奇妙な兵器をじいと見つめた。
どこを触れば良いのだろう。
いったいどんな仕掛けがあるのだろう。
どうやって攻撃するのだろう。
疑問を補えるだけの知識がないため、見ることしかできない。
ここへ来る前に、もう少し兄や曹休から話を聞いておけば良かった。
は兵器の隣に座り込んだ。
万が一許昌の城外まで敵が押し寄せた時、これはどれほど活躍してくれるのだろう。
その時を想像しようとして気分が悪くなる。
良くないことは考えない方がいい。



「あーっ、殿! いけませんってそんな高いとこで! まーた殿に知られて叱られますって!」
「妙才おじ上」
「あっそこ動かなくていいですから!」



 下から野太い叫び声が聞こえ、城壁から身を乗り出し地面を見下ろす。
思った以上の高さに頭がぐらりと傾きそうになり、地上から複数の悲鳴が上がる。
驚きの進軍速度で目標地点である兵器の隣まで到達した夏侯淵に保護されたは、あれと指差した。



「妙才おじ上、これはいったいどのように使うのでしょう」
「いやいやいやいや、公主がそんなこと知らなくていいですって! はー、にしてもよくこんな高いとこまでひとりでよじ登って・・・」
「随分と遠くまで見えるのですね、楽しゅうございます」
「そりゃあ遠くを見るために高くして、守るために厚くしてますから。さ、降りましょう。長居して体調でも崩したら一大事だ」



 軽々と抱え上げられ、時間をかけ苦労して登り切った城壁からあっさりと帰還する。
地上で待ち構えていた荀彧が、青ざめた顔で駆け寄る。
荀彧の方がよっぽど具合が悪そうだ。



「ああ、お怪我はありませんか? よろしいですか様。あれは非常に危険な兵器です」
「父の軍を守るためのものが?」
「ええ。満寵殿・・・あれを作った策士ですが、彼が言うには熊もたまらず倒れるほどの投石車とのことです。下手に触れれば、様諸共城外へ放り出されかねません」
「では、あれを使えば夏侯覇殿に見つからず外へ抜け出すことができるということでしょうか」
「俺の息子、公主に撒かれてんのか・・・。頼むぜ息子・・・」
「熊も昏倒する威力で押し出されれば、お前も地面に叩きつけられて死ぬ」
「夏侯惇殿、滅多なことを仰らないで下さい!」
「そのような強大な兵器とは・・・。扱う者も充分に用心していただきとうございます」
「ああ、物好きな公主が来ても追い払えと伝えておこう。孟徳は許チョと外出だ。黙っておいてやるから城に戻れ」



 使い方はわかった。
今度は保護者もこれだけの数を揃えたのだから、改めて兵器に安全に触れてみたい。
そう願いを込め隻眼の将軍を見上げているが、何も言っていないのに駄目だと却下される。
ならばと思い夏侯淵へと視線を移すが、惇兄ぃが駄目と言ったものは駄目と返される。
皆、優しいがゆえにとても厳しい。
だが、優しい上に甘い荀彧ならばどうだろう。
は最後の望みをかけて荀彧を見つめた。
相変わらず青白い顔をしている荀彧が腰を屈め、柔らかな目で見つめ返す。
怪我をさせた下手人の特徴は?
ああ駄目だ、実はこの人が一番心配症だ。
は切り傷をした指をぱっと隠すと、くるりと荀彧たちに背中を向けた。
ちゃんと城に帰れるか、公主。
夏侯惇の揶揄うような問いかけに、は子どもではありませんと背を向けたまま反論した。
















 油断も隙もない公主だ。
今日はを見失ったと泣きついてきた夏侯淵の子息からの通報で事なきを得たが、彼女は行動範囲が広すぎる。
一仕事やり切った表情で茶を飲んでいた荀彧は、見つかったかなという同僚からの問いかけにきりりと顔を引き締めた。
を最後に見かけた場所から現在いそうな地点を割り出してくれたのは、満寵お手製の城内図のおかげだ。
恐ろしいほど城内の構図が丸裸にされている。
敵にはもちろん、の目にも絶対に触れてはいけない代物だ。



「満寵殿のおかげで無事に。予想通り、配備されたばかりの兵器の隣に座っておられました」
「へえ、殿のご息女はお目が高い」
「好奇心な旺盛な方ですので、先日兄君と宮中を散策された時から気になって仕方がなかったようです」
「私はてっきり、荀彧殿がご自分の娘さんを探しているのかと思ってしまったよ」
「取り乱したところを見せてしまい、お恥ずかしい限りです」
「誰であれ、うっかり触って怪我とかしなくて良かったよ。あの投石車、まだ改良の余地があって曹操殿に追加の配備をお伝えしたところでね」
「さすがです。費用の心配はなさらず、存分に開発されて下さい」
「それは心強い! この部分なんですが、角度と距離と伸ばすために幅をもっと・・・」



 守城や兵器について詳しくないが、語り始めた満寵の熱を冷まさないためにも話に耳を傾ける。
たっぷりの紙に余すところなく書き殴られた図面に、満寵の並々ならぬ熱意を感じる。
書き込んでいる間に朱でも零したのか、隅もうっすら茶色く滲んでいる。
いや、これは朱ではない気がする。
まさか満寵は寝る間も惜しんで、血を吐きながらこれらを・・・?
荀彧の異変に気付いたのか、満寵が口を閉じ怪訝な顔を浮かべる。
これはいったいと指し示された染みに、満寵はああと弾んだ声を上げ指を鳴らした。



「実はこの案を思いついたのは、先の兵器の配備中だったんです。けれども宮中のど真ん中で書くものがあるわけもなし。かといって服を紙代わりにするわけにもいかず困っていたら、ちょうど女の子が通りかかったんです。腕に紙いっぱい抱えた女の子が!」
「えっ」
「お困りのご様子と言って持ってた紙全部くれて、私も紙欲しさによくよくお礼も言わずひったくてしまったのだけど、その時に切ってしまったみたいで。あの子も怪我してないといいのですが」



 ああいう子を守るためにも城の警備は更に厳重にしておきたいと夢を語る満寵に、そうですねと相槌を打つ。
まったくもってその通りだ、否定の余地はどこにもない。
満寵は自作の兵器とは違うところで明らかに怪我をさせていたのだが、もちろん彼もも気付いていない。
知っているのは自分だけだ。
曹操は侵入者でないのなら穏便に済ませたいと青筋を立てながら話していたし、本人もてんで気にしていなかった。
それどころか、大仰に巻かれた患部の布を剥がそうとして侍女に止められていたくらいに息災だった。
下手人は見つけた。
犯人はやる気を持って貴人を守ろうとしている。
悪気があったわけではない。
だからいいのだ、誰も何も悪くない。



「満寵殿。様・・・公主のこと、これからも守ってあげて下さい」
「え? まあ守城は任せていただきたいですね! 許昌には侵入者ひとり入れさせません」



 それで荀彧殿、この手の兵器を少なくともあと3台ほど・・・。
満寵の莫大な予算要求に、荀彧はお任せ下さいと大きく頷いた。




「人探しといえば昔、似たような依頼を受けたことがあってね。あの時は確か公主だったけど、どんな方だったんだろう」



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