氷天楼にご案内     終







 出立の日だ。
結局、許昌城外で別れて以来友とは会えずじまいだった。
曹丕も何の褒美も与えてくれなかった。
命があるだけましだと思いましょう。
陸遜はそう言ったしそれはもっともだと思うが、生憎と慰めにはならない。
陸遜には、国に戻ってやることが山ほどあるらしい。
まずはが攫われたこと。
無断で彼女を救出するために出奔したこと。
これについては場合によっては罪に問われる可能性もあるらしい。
もちろん友人の去就についても話しておかなければならない。
本当に諦めてしまっていいのだろうか。
気丈に見えて心配性の友人だ、今頃は明日をも知れぬ我が身を案じて泣いているかもしれない。
受けた依頼、反故にしちゃったな。
材料代の実費くらいは凌統に請求できるだろうか。
そもそも、彼の邸を訪ねたとして生きて帰してもらえるだろうか。
あれだけ欲しがっていたはずの鳳凰も、今となってはどうでも良くなってしまった。
私もこれから新しい仕事先探さなきゃなあ、また曰くが増えちゃったから次も探すの苦労しそうだなあ。はあ。
深い溜息を陸遜に見咎められる。
相変わらずよく見ている男だ。
初めの頃こそその熱すぎる視線を鬱陶しく思っていたが、慣れというのは恐ろしいもので今ではこれが普通だと感じるようになってしまった。
ないと寂しい。
そうまで思うようになってしまったこの身は、確実に変化を遂げているのだろう。



「どうしましたか、疲れが出ているのでしょうか」
「それもそうですけど・・・。私、これからどうなるのかなって」
「そうですね・・・。しばらくの静養という名の謹慎程度はあるかもしれませんが、それ以上の仕置きはないはずです」
「でも仕事、更に探すの大変になりますよね。家族も相当心配しただろうし、内通とか疑われてまた牢に繋がれたりしてませんよね・・・」
「繋がれたことがあるのですか」
「まあ元は孫家に楯突いてた側ですし、義封殿の元に出仕してたのも人質だったからで」



 せめて退職金を多めに弾んでくれないだろうか。
出来れば一生暮らせる程度がいい。
無理だろうなあ、帰ってからのことを考えると具合が悪くなってきた。
今日の出立は難しいかもしれない。
ねえ陸遜殿、帰らなくちゃ駄目?
の問いかけに、陸遜は駄目ですと即答した。



「待ち受けているものは多難かもしれませんが、万が一殿が不当な扱いを受けるようなことがあれば私が全力で守ります。仕事も戻ってくればいいだけです、私はいつでも歓迎します」
「いや、それはちょっと・・・。・・・ごめんなさい、陸遜殿を見ていると罪悪感が湧くんです。これから先ずっとそうなんでしょうか」
殿・・・。殿が気に病むことはないのです。そんなことはあの人も望んでいないはずです」
「ええ、もちろんです」
「ほら、彼女もこのように。・・・え?」
「出立前でようございました。殿にこちらを。大切にするようにと、陛下が仰せでした」
「・・・・・・え、いや、あの、ありがとう。ていうか、その、いつからそこに」
殿が次の勤め先に苦慮されていたあたりでしょうか・・・」
「だいぶ始めですね!?」



 存在に気付けなかった。
友人は最後に会った時と同じく、寂しそうな笑みを浮かべている。
どうしてここに。その問いかけが出てこない。
もう会えないと思っていた。
とても遠い世界の住人のように思っていた人が目の前にいる。
沈黙が痛い。
耐えきれず陸遜を顧みるが、見たこともない顔をしている。
あ、これは驚きすぎて頭の中が燃え上がっているな。
使い物にならない軍師だ。
はすうと息を吐いた。
きっと何か言わなければ、彼女はまた宮城へと行ってしまう。
それだけは嫌だった。
もしも宮城が彼女の本来の居場所だとしても、我儘を通したかった。
我儘を聞いてもらえるだけの関係だと信じていた。



「一緒に帰りましょう、呉に」
「よろしいのですか?」
「一緒にいてほしくて毎日宮城に通ってたんです。全部門前払いだったけど。逃げましょう、こんなとこにいたらまた殺されちゃいますよ!」
殿・・・。わたくしは、」
「あなたが誰だっていいんです。あなたは私の大事な友人で、陸遜殿の遠縁で、凌統様の奥方なんです。呉にいる理由なんてそれだけで充分です。私曹丕に頼んでたんです、鳳凰の衣をくれって。あなたに渡すためなんですから、依頼主はいてもらわないと困ります。その、お代とかの意味でも!」



 しどろもどろになりながらも説得を続ける。
悲しげだった表情がゆっくりと変わっていく。
あなたの国よ、みんな待ってる。そう告げて両手を握る。
孫呉に住む者は皆、孫呉の民だ。
煌びやかな装飾や豪奢な衣も宝物もない。あったかもしれないが、数年前に書庫で燃え尽きた。
あるのは長大な長江とのどかな景色と、血の気の多い荒くればかり。
何もかもみんな、あなたを待ってる。
だから帰りましょう。
もはや叫びに近い願いをぶつけられた友人が、力強く頷く。
そうと決まれば話は早い、重い気分も悪かったはずの具合も快癒した。
馬はどこだ、追手がかかる前にとっととこんな冷たい国とはおさらばだ。
固まったままの陸遜を焚きつけ、馬車に押し込む。
行きの車中は最悪だったが、今日の旅は最高だ。
は通い詰めた宮城を見上げた。
曹丕の姿が見えた気がした。
























 遠ざかる馬車を見送る。どうやら無事に合流できたらしい。
しばらく待ったが、戻る気配はない。
遷都をする前で良かった。
まさかあの道を使うことになるとは、妹も考えもしなかっただろう。
別れを告げられたのはこちらだった。
彼女にとって孫呉は、今はまだ良い国なのだろう。
不思議と悔しくはなかった。
もう二度と会えないかもしれないというのに、寂しくもない。
再会しない方がいいのだ。
逃げ場は用意してやったが、そんなものは使わない方がいいに決まっている。



「我が君、よろしかったのですか」
「世話をかけたな、甄。辛い思いをさせた」
「いいえ、可愛い義妹のためですわ、お役に立てたのであれば何よりというもの。・・・けれど、もしも本当にその日が来た時は」
「寿春には文烈がいると言った。その意味がわからぬ馬鹿ではない」



 孫呉が妹に危害を加えた時が、再会の日だ。
だからそんな日は一生来ない方がいい。
曹丕はくるりと背を向けた。
そろそろ寒くなってきた。
新しい外套を仕立てなければならない。

































 結局元通りだ。
いや、以前よりも状況は悪くなったかもしれない。
ごくごく内密に連れ去られたはずの誘拐事件と思っていたのは当事者のみで、しばらくの静養の後出仕したを待ち受けていたのは、好奇や疑念やらの感情を大いに含んだ不躾な視線と囁き声だった。
ほんの少し覚悟していたとはいえ、なかなかに堪える。
国主たる孫権や練師に気を遣わせてしまっているのも肩身が狭い。
堂々としていればいいんだよと助言する朱然は、人の心の機敏を読み取るのが下手なのかもしれない。
とはいえ、場合によっては曹魏との内通を疑われ一族郎党皆殺しになるかもしれない状況だったのだ。
朱然が家族の元へ足繁く通い様子見とある種の牽制をしてくれていたことについては、生涯頭が上がらないと思う。
また牢獄に入れられたら、さすがに逃げていたかもなあ。
そうあっけらかんと大笑して言い放った父の壊れた胆力には怖気を振るったが。
父はおそらく、孫家のことを今でもあまり好きではないのだろう。
だから出世しないのだ。
放言を重ね交州送りにならなければいいのだが。




殿が自ら足を運んで下さるとは、ついに私の積年の願いは叶ったのでしょうか!」
「今の私は無位無官ですし、でも実家も手狭だし気も散りますし、他に行くあてといえば義封殿の元くらいですけど、それだと義封殿のお邪魔になるでしょう?」
「朱然殿のことは気にかけるのですね。妬きます、焼きましょうか」
「ほら、そうやって迷惑をかけようとする。だから先手を打ってこっちに来てるんです。虎穴に入らずんば虎子を得ずでしたっけ。まあこれは鳳凰ですけど」



 曹丕から下賜された外套には、それはもう立派な鳳凰が羽を休めていた。
生地を傷めないよう細心の注意を払い、図柄を写し取り仕上げていくのは至難の業だった。
外套は、曹丕には悪いが置き場所にも困るのでこのまま友人に渡そうと思う。
そう陸遜に相談すると、いい考えだと思いますと拍子抜けするほどすんなりと賛成してくれた。
たかが内職名人の素人に鳳凰の意匠を頼むほどの鳳凰好きなのだ、曹丕の外套もきっと欲しいに決まっている。
かくいうこちらも、鳳凰よりもどちらかといえば虎が好きだ。
友人宅の夫婦仲は相変わらず良好だと聞いた。
「実家に帰る」というすぐに嘘と知れるような書置きを残して失踪した友人の無茶には驚いたが、もっと驚かされたことに、凌統はそれを鵜呑みにしたらしい。
後ろ暗い心当たりなどあろうはずもない凌統は暴れに暴れ、大人しくさせる意味でどこかに閉じ込められていたらしい。
自分でも家族でも陸遜でもなく、よりにもよってもっとも被害者に近い凌統が囚われの身になるとは思いもしなかった。
牢に入れておかなければ、凌統もまた陸遜と同じように許昌まで追いかけていたのだろうか。
それとも、どことは知らないが彼女の実家とやらに押しかけていたのだろうか。
下手に戦争をするよりも、そこら辺の女を連れ去った方が孫呉の兵力を落とせると気付かれなかっただろうか。
曹丕はしないだろうが。
そもそもあれは、彼の部下たちが独断でやったことだ。



殿、額はまだ?」
「瘡蓋ができたのでもう大丈夫です。他のところもだいぶ目立たなくなりました」
「だったら良かった。大事な体です、これからも大切にしていただかなければなりません」
「陸遜殿こそお叱りとか、その、降格とかは・・・」
「頭を冷やせとは窘められました。ですが、出遅れれば凌統殿のように謹慎させられていたと考えれば今回の行動に間違いはなかった・・・と思っています」
「それ、殿の前で言ったんですか?」
殿・・・、私はそこまで馬鹿ではありませんよ? けれども、頭を冷やしたくらいで諦められる程度の人を私は好いていないと、それはわかっていただけましたか?」




 助けてと心の底から願った時、真っ先に頭に浮かんだのは陸遜だった。
来てはいけないとわかっていても、祈らずにはいられなかった。
なんて勝手な人間だろうと思う。
普段はあんなに邪険に扱い裏切りのようなかたちで職を辞し、焼き討ちに遭ってもおかしくないような行いをした。
本来であれば頭を下げ泣いて喜ぶべき好意も踏みつけ、そうだというのに都合が悪くなればそれら所業を棚に上げ救いのみを求める。
そして陸遜は間違いなく助けに来てくれたのだ。
矢の雨に為す術なく泣きじゃくっていた時に現れた陸遜の背中が、どれだけ大きく見えたことか。
圧倒的不利な状況でかけ続けてくれた激励の言葉に、どれだけ勇気づけられたことか。
場を収めてくれたのは友人と于禁だったかもしれないが、にとって命の恩人は陸遜だった。
彼が駆けつけていなければ、今頃は許昌城外で討ち捨てられたままだ。



「・・・あの、ずっと言おうと思っててまだ言えてないことがあるんですが・・・」
「聞かせていただけるのですか?」
「聞いて下さい。助けてくれてありがとうございました。陸遜殿は私の命の恩人です。このご恩は、いつか必ずお返しします」
「感謝される筋合いなどないのです。私がいながら、殿に怪我をさせてしまいました。命に別条がなかったとはいえ、悔やんでも悔やみきれません。殿の恋人を自負しているのに」
「勝手にしないで下さい」
「・・・様々なものに勝手に嫉妬して、殿を奪われてしまうのではと恐れて、于禁殿の邸にも火を放ちました。幸いにもその件は朱然殿が曹魏のせいだと揉み消して下さったのですが・・・。反省しています。殿の夫と名乗るであればもう少し威厳と余裕を持たなければ」
「勝手に名乗らないでください」
「では許可を取れば自負も自称も許していただけるのですか?」



 いいよと言えばどうなるのだろうと、ふと考える。
選択の余地がずっと欲しかった。
外堀を埋められ流され続けていたが、ようやく意思を手に入れた。
駄目と言えば諦めてくれるのだろうか。
単身敵地に乗り込んでしまう無鉄砲な男が、駄目の一言で引き下がるとは思えない。
なによりも引き下がってほしくない、諦めてほしくないと思ってしまっている。
素直になれなかったのはこちらだ。
陸遜にばかり本性を曝け出させて、こちらは彼に何も見せていない。
今でさえ、翻意してしまったことが恥ずかしくて言い出せない。
は陸遜を見つめた。
見覚えのない傷を頬に見つけ、思わず手を伸ばす。
鋭利なものが掠めた後、おそらくは矢を弾いた時に受けたものだ。
今頃気付いてしまうなんて、今までいったい彼の何を見ていたのだろう。
面倒で厄介だと、家柄ばかり見ていた点では自分も周りの女子たちと何も変わりがなかったのだ。
今、ようやく陸伯言という男と初めて真正面から向き合っている。
触り方がこそばゆかったのか、猫のように目を細める陸遜の肌をしばらく撫でていると、そっと手を重ねられる。
許しをください。
はっきりとした申し出に、は正気なのと尋ね返した。



「私、あなたの役になんて立てない。さっきはご恩は必ず返すと言ったけど、本当に何もないの。ないどころか、また面倒事を起こすかも」
殿の目下一番の面倒で厄介な事案は私だったのですから、味方に引き入れてしまえば何も怖くありませんよ」
「相変わらず義封殿と遊びまわるかも」
「悔しいですがそちらの方がいいと思います。朱然殿は殿からの信任も厚いので、今後殿に妙な疑いがかけられても必ず守り切ってくれます」
「疑いがかけられるような女を迎え入れるのはお勧めできないわ」
「・・・。殿、私の弱味を今でも誰にも言っていないでしょう」
「何ですか急に。あんなもの言い触らしてどうするんです、馬鹿馬鹿しい」
「その思慮深さがずっと愛おしかったのです。私は、殿にならばすべてを預けられる。炎の中でも氷山でも、次は初めからご一緒させて下さい」
「・・・わかりました、許してあげます。その代わり、私を置いていかないで。陸遜殿の思い込んだら一直線に無茶なところ、私も最期までお付き合いしますので」



 もう少し、仲良くできるように努力します。
そう精いっぱいの笑顔で言うと、陸遜の表情がぱあと明るくなる。
欲しかった玩具を手に入れた少年のような輝きだ。
どうしよう、今更恥ずかしくなってきた。
満面の笑みで抱きついてきた陸遜からは慌てて逃げると、内職道具をつかんだ。
場所を変えよう、今日からいきなり仲良くはさすがにできない。
今はそうだ、多少迷惑はかけるかもしれないが襲われそうになったから逃げてきたと泣きつけば朱然も断りはしないはずだ。




「ああ殿、どこへ行くのです!」
「ついて来ないで下さい! 仕事、仕事して下さい! 来ないで!!」
殿の向かうところどこへもお供すると先程申し上げたではありませんか。フフフ、照れているのですね。可愛い方だ」
「嫌がっているのです!」



 こんな気持ち悪い男と本当に最後まで付き合っていけるのだろうか。
早く決めすぎてしまったかもしれない。
だが、選べたことに後悔はしていない。
他でもない自分の意思で決めたのだ。
何であれ大切にしたい。
庭園を逃げ惑うの腕の中の鳳凰が、風を受けふわりと膨らんだ。








あとがき
お付き合いいただきありがとうございました。足引っ張り合う世界で誰の不都合も口にしないヒロインは、それだけで信用されていたと思います。
何てことない弱味は前作の第4話です。





分岐に戻る