氷天楼にご案内     7







 通い慣れるようになった于禁邸へ朱然と向かう。
館が近付くにつれ、うっすらと焦げ臭い匂いが漂ってくる。
ただの小火にしては大騒動になるわけだ、朱然が来ない方がおかしい規模になっていた。
は于禁邸へと向かう最後の角を曲がろうとして、狼狽えた様子で館を眺めている女性の姿を認めた。
まるでここから先は彼女にしか見えない壁でもそびえ立っているのか、于禁邸へ寄ることを躊躇っている。
愛妻についてはこと心配性の凌統だ。
降将の屋敷にみだりに近付くものではないとでも強く言い含められているのかもしれない。
言いつけに大人しく従う友人でもないのだが。



「まあ殿、朱然殿。ご無事でようございました」
「心配させてしまってごめんなさい。あの、陸遜殿を見ていませんか? 私、不審火だと思ったのであの人にも対応を考えてもらおうとしたのだけど執務室にいなくて・・・」
「陸遜殿でしたら、一報が入ってすぐに于禁殿の元へ向かわれました。早まってはならないとわたくしも追いかけたのですが・・・」
「凌統様に駄目だと言われていましたか? 私も凌統様にまでご迷惑おかけしたくないし、本当にあの人のせいで巻き込んでしまって・・・」
「いいえ、公績殿は特に何も。それよりもおふたりは疾くあの方の元へ。陸遜殿も大層お怒りでございましたし、何をなさるかわかりません」





 行けたら行くと足を押さえながら話す友人と別れ、間近に迫った于禁邸へ駆け込む。
外から見ても何もわからないが、中へ入るとぴりぴりとした空気に背筋が伸びる。
経験からわかる、ろくな展開になっていない。
は止める朱然の手を振り切り客間へ入るなり、陸遜殿と叱責の声を上げた。




「こんなところにまで来て何をなさっているんですか! お部屋にもいらっしゃらず、お探ししたでしょう!?」
殿落ち着いて下さい、お客人の前ですよ」
「招かれざる客は陸遜殿でしょうに、何をぬけぬけと」
「控えよ殿。私は今は陸遜殿と相対しているのだ」
「う・・・、申し訳ございません・・・。で、ですがこの人は!」
殿の夫となる方だと伺った。公私を弁えぬ行いについては二、三問い質したが妻の身を案じる気持ちはわからぬでもない」
「は、ちょ、えっ、ち、ちが」





 何も知らない無垢な于禁に何を吹き込んでいるのだ。
そうやって周囲ばかり埋めてきて、ようやく逃げ出せたと思っていたのにまたこれだ。
断じて夫などではないし、妻になどなりたくもない。
指名され、なすがままに話が進むのだけは勘弁願いたい。
たとえ逃げる道が少なくとも自分で決めたいのだ。
于禁付きの女官の仕事も、自分で見つけてきた大切でそれなりに好きな任務だ。
どうしてこの男は何もかも奪おうとするのだ。
はしたり顔で話を続ける陸遜の、殴りつけたくなるほどに整っている横顔をぼうと見つめた。




「この通り彼女は素に戻ると少し荒々しい面が出てきてしまいます。客将でもある于禁殿周りの勤めを続けさせるにはいささか不安もあります。
 ・・・どうでしょう、今回の小火の件が落ち着くまで殿を私がお預かりしても」
「何を勝手なことを仰っているのです! 私は嫌です、小火なんて次は起こりません、ええ、起こさせませんとも」
「では起こらないようにする対策を私と朱然殿、それに殿で練りましょう。おふたりが私の部屋を訪ねたのもそのためでしょう?」
「陸遜、さすがにいきすぎだ。が烈火のごとく怒るのも当然だ。はお前の都合のいい想像に付き合う暇も趣味もないんだ」
「朱然殿こそこの場に最も関係のない方なのでは? 大方小火の現場を見に来たかったのでしょうが、怪しいところは何ひとつありませんでしたよ・・・」




 本当にそうかなと思う。
あまり嗅ぎ慣れない匂いを吸い込んだ気がしたが、火計好きや戦慣れした人々にとっては当たり前のものなのだろうか。
少なくとも火元の炊事場を燃やしたとしても、あんな臭いを発するものはなかったはずだ。
知らない間に嗅覚がおかしくなっていたのだろうか。
陸遜と朱然の睨み合いも黙ったままの于禁も放り、小火を思い出す。
燻り続けている疑念を口に出そうにも言葉が出てこない。
本当に陸遜の元に戻されてしまうのかななどと、余計な雑念ばかりが入ってくる。
そうではない。
今、真に考えるべきは小火の違和感だ。



「・・・殿が傍で働いていることに助けられているのは事実だ。今後も引き続き頼みたいと先刻孫権殿にも申し伝えてきたのだが、殿の意見を聞かせてほしい」
「于禁殿が発たれる日まで残ります」
「いいですか殿、次にまた同じことが起こればどうします。今回は小火で済みましたが、今度はあなたや于禁殿の身に危険が及ぶかもしれません。
 いずれは曹魏へ戻ることになっている于禁殿が負傷でもなさったら、殿はどう責任を取るのですか」
「その責は殿が問われるものではない。私の責だ」
「この方が仰るとおりです。・・・抜かりましたな陸遜殿、後手に回られたご様子」



 重苦しく今にも爆発しそうだった客間に、朗々とした声が響き渡る。
顔色が悪く表情も暗いが、先程道端で別れた友人が黒く焦げた何かを抱え佇んでいる。
いついかなる時も毅然としている于禁が弾かれたように立ち上がり、友を凝視している。
もしも自分が友人の立場だったら、于禁のような大男に見られ続けていることに耐えられないだろう。
逃げ出しはしないが、視線を避けてしまうかもしれない。
そのくらいに彼の視線は鋭く熱いものだが、友人は気付いているはずなのに何もしない。
顔どころか、目を向けようともしない。
まるで視界に入っていない、そもそも存在していないかのように振舞っている。
歪だ。この状況に対して陸遜も朱然も何もしない。
強いて言えば、朱然が友を庇うように于禁との間に入った程度だ。
ただの小火なのに。思わずそう呟いたに、友人は小さく頷くと小火の話ですと返した。



「この館に火を放とうとした者がいました。ひとりは陸遜殿・・・そうですね」
「陸遜、お前やっぱり・・・」
「最低です、見損ないました」
「けれども、陸遜殿は斯様な手段では火は放ちません。この残骸にはわたくしも覚えがございます。陸遜殿もおありのはず」
「かつて、部屋をまるごと灰にした方と同じです。これは北でしか採れません、私たちでは作ることも使うこともできません」
「じゃあ今回の小火は陸遜が仕掛けたのを出汁にして曹魏の連中が便乗したのか? 何のために?」
「于禁殿に万一のことあらば、それを口実に攻め込むつもりだったのかもしれません。だから私は殿を引き取りたかったのに」
「今話し合うべきはそこではありません。誰かがいるのです。わたくしたちが気にも留めぬ何者かが、何らかの敵意を持って策を企てているのです」
「そんなはずないわ! だってこの館には于禁殿と私しかいなくて、そんな・・・!?」
殿、・・・このお方の話は事実であろう。武人でもない殿を巻き添えにしたのは私の過ちであった。私はこの件を再び孫権殿に具申するつもりだ」
「斯様な振る舞いをなさったとしても、孫呉にとっては何の益にもなりますまい。・・・戻れるうちに故国へ戻られるのが御身のためでございます」



 誰もが皆、寂しくて辛くて苦しそうな顔をしている。
何もわからず、何にもついていけていないのは自分だけだ。
ひとりだけ除け者にされている。
危ないからという理由で置き去りにされている。
当事者なのに。于禁に仕える唯一の女官(筆頭)なのに。
悔しい。これでは昔と何も変わらない。
右も左もわからぬままに話が進んで、すべてが終わっていた朱然の女官だった頃と同じだ。
辞めることしかできなかった非力で世間知らずな小娘のまま、まったく成長できていない。




、嫌かもしれないけどひとまず引き上げろ。陸遜の元が嫌なら俺のところに戻ってきてくれてもいいから、とにかくここは戦場だ。がいていい場所じゃない」
「じゃあ于禁殿の元には誰が向かうの? 私以外で国が好き勝手にできるそこそこに都合のいい女官なんている? 孫権様に言われたの、お前を置いて他にはいないって。期待には応えないと」
、どうしてそんなに強情に・・・」
「なるに決まってるじゃない! 勝手に妻扱いされて、勝手に夫と名乗られてやっと見つけた職場まで取り上げられそうになって、小難しい理由つけて引き剥がそうとして!
 私は確かに偉くも賢くも裕福でもないけど、私にだって選ばせてよ! 私の生き方に口出ししないで、何はいいかは私が決める、私は陸遜殿や義封殿の言いなりになるお人形じゃないの!」




 孫策軍に敗れ、戦火で家も失くしたのに一家の大黒柱だった父も役所の隅に追いやられた。
父の薄給だけでは生きていけなかったから、人質同然の女官としての徴用に応じると決めた。
女官というのは聞こえのいい建前で実際はどこぞの妾にでもされるのかなと諦めてもいたが、向かった先は朱家の屋敷だった。
敗軍の貧乏役人の娘としては破格の待遇だったと思う。
好みではなかったのか体を求められることは一度もなかったし、朱然は友人のように接してくれた。
互いに主従ではなく、友人だと思い違いをしていたのかもしれない。
仲の良い友人関係は周囲の主にそこそこの家格の出の同僚たちから見れば面白いわけもなく、ある時から急に嫉妬という名の風当たりが強くなった。
馬鹿馬鹿しいと相手にしていなければ程度はますます酷くなり、仕事に支障も出るようになった。
書簡に小刀を仕込むのはやめてほしかった、切った指で炊事をすると傷が沁みて痛むのだ。
ただ怪我も自分ひとりが負ったものだし、嫌がらせを差し引いても朱家での仕事は他より良かったので続けていたら、ある日屋敷から火が出た。
母屋ではなく使っていない納屋からだったが、朱然の火計鍛練とやらを迎えに行った後に起きてしまったので間も悪かった。
炊事場以外で火を扱ったことなどない。
だが、女官たちの宿舎で失くして探し続けていた帯の燃えかすが現場で都合悪く出てきてしまった。
納屋で帯が出てくるなどいかがわしい火遊びをしない限りありえないと朱然も業火のごとく激怒し身の潔白を晴らそうとしてくれたが、耐えられなかった。
庇ったところで何も返してあげられない身なのだ。
お前自身がに手を出していたのではないかと、ありもしないくだらない推測で朱然が責められようとしているのは見たくなかった。
だから、止めるのも聞かずに職を辞した。
辞めた途端に嫌がらせも、嫌がらせをしていたであろう女官たちも消えたのだから、知らないところで何らかの力が働いたのだろう。
怖い世界だと思う。二度と関わりたくないと心に誓った。




「・・・ごめんなさい、頭を冷やしてきます。于禁殿、また明日伺います」



 子供のように言いたいことを喚き散らして、そんな大人げない自分にげんなりする。
居たたまれない。また逃げ出してしまいそうだ。真っ直ぐ見つめられるのが怖い。
は于禁の止める声にも聞こえないふりをし、宵闇の迫る街へと姿を消した。







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