氷天楼にご案内     9







 旅、しかも遠出のものは久し振りだ。
子どもの頃は親に連れられ湖に涼みには行っていたが、まさか国を跨いでの遠出をすることになるとは思いもしなかった。
したくてしているのではないが。
どこへ向かっているのかすらわからないが、おそらく国内ではあるまい。
は後ろ手に縛られ転がされた状態で走り続ける馬車から微かに覗く見覚えのない景色を眺めながら、痛みに呻いた。
不在の于禁邸を悪意と殺意をもって襲ってきた賊徒たちは容赦も慈悲もないようで、捕らえた獲物の扱いは至極ぞんざいだった。
孫策軍に虜囚の憂き目に遭った時もなかなかに手酷いと感じていたが、命の危険に晒されているだけ今回の方がきつい。
このままどこかで殺されてしまうのではないかと容易に想像できてしまう。
国境を越えれば陸遜たちも迂闊に手を出せなくなる。
守ってくれる人も助けてくれる人も誰もいない。
もっと大声で泣きたくなってくる。怖すぎる。



「帰して・・・」
「今帰っているだろうに、妙なことを言う」
「は・・・?」
「哀れなものだな、陛下も」
「は・・・!?」


 陛下とはいったい。
先だって漢の帝は曹丕に帝位を譲ったはずだ。
ということは曹丕が哀れ、なぜ?
いやいや、どう考えても今もっとも哀れまれるべきはこちらであって曹丕は何の関係もないはずだ。
着いたぞと言われ、縄を外され地面へ投げ落とされる。
見たこともない城壁が目の前にそびえ立ち、その上にはずらりと弓矢を構えた兵たちが並んでいる。
彼らの放つ矢の標的が自分だとしたら。
無理だ、死んだ。
どうにか立ち上がっていたは、眼前の絶望的な状況によろよろと再びへたり込んだ。


























 身に帯びるのは使い慣れたとっておきの双剣、ただそれだけだ。
他を用意する時間などあろうはずもなく建業を飛び出した。
泡を吹いて倒れた馬を変え昼夜を問わず駆け続け、思えば遠くまで来たものだ。
目的地がわかっていたから一心不乱に駆けてこられたものの、単騎でどうにかできるほど事態は甘くない。
重大な誤認のせいでが殺されるなどあってはならない。
本来の標的が弑されるのも困るが、とにかく今はを奪還しなければならない。
于禁が彼女を目当てにやって来たということは、そういうことだ。
于禁本人は何の密命を帯びていなくとも曹魏は知っている、赤壁の戦いで喪ったはずの曹操の娘が孫呉で生きていると。
さもありなん、彼女は孫呉を守るために目立ちすぎたのだ。
後から追いかけて、いや、数年ぶりの帰還を果たすであろう于禁たちの姿はまだない。
しかし彼に期待はできない、戻った彼は敵になる。
正真正銘の独りだ、味方がどこにもいない。
けれども、はきっともっと怖い思いをしているに違いない。
怯え泣いているかもしれない。
脅しに屈して洗いざらいすべてを話してしまっているかもしれない。
それでが助かるのならば仕方がない。
そうすんなりと割り切れない自分自身の弱さに腹が立つ。
誰もが傷つかない方法などないとどうして受け入れられないのだ。
お花畑の真ん中で育てられたわけでもなかろうに、だからに嫌われるのだ。
彼女は煮え湯もぬるま湯も飲まされてきた側だから。




「あれは・・・?」



 ようやく辿り着いた許昌城外に漂う異様な雰囲気に、背筋がぞわりと粟立つ。
静けさが恐ろしい。
探し求めている人物はもういないのではないかと思ってしまうほどに空気が冷え切っている。
陸遜は双剣をぎゅうと握り締めた。
寒いから震えているのではない。恐ろしくて震えているのでもない。
無謀で、死にに行っているとわかっている。
だが、向かう先には決して手放したくない大切な人がいるのだ。
彼女に謝らなければならない。
聞いてほしい言い分もある、伝えたい想いも溢れている。



殿!!」
「ひぇ・・・え・・・、り、陸遜殿・・・!? なんで!?」



 砂まみれで、泣いていたのか顔がぐしゃぐしゃで、ごしごしと涙を慌てて拭った手は血の色で。
こんな目に遭うような人ではないのに酷すぎる。
陸遜はを庇うように立ちはだかると、城壁を睨みつけた。
もう逃げられない。
なんで来たの、ばかぁ。
の泣き声に、陸遜は大声で馬鹿だからですと叫び返した。






























 あれが本当に公主か?
独り言のような問いかけに、隣の男がどうでもよいと嘯く。
ちらと聞いていた話では自室を灰にする剛毅な姫君だったらしいが、今城外にいるのは力なく座り込んだどこにでもいそうな小娘だ。
王族の威厳などまるで感じない。
よもや違う人物を攫ってきたのでは。
その疑惑を見通していたのか、司馬懿は何か問題がと答えた。



「陛下の妹を騙るような大罪なら死罪も然るべきかと。騙ってもおらずただ連れられてきたのであれば、運がなかったというより他に。もっとも、あれを質に本物を引き出せれば良いのですが」
「今更死んだ公主を呼び戻す司馬懿殿の執念が知りたいね」
「実際には死んでいないからお帰りいただくのですよ。万が一にでも陛下に情が湧かれ孫呉を降すのに支障が出ることは避けねばなりません」
「まあ、そういう考えもあるにはある、が。あの子が本物の公主だとしたらどうする?」
「ご帰還遊ばされたとしても、もはや一度敵の手に染まった者を懐柔することは難しいでしょう」
「どのみち死なせるつもりか。いやあ、恐ろしいことを考える」



 それもまた忠誠心と呼ぶのだろうか。
曹丕が外出している間に済ませてしまいたいのだろうが、相手も存外しぶとい。
単身飛び出した命知らずが矢の雨から守っているようだ。
いつかも見た光景だからわかる、長くは保たないと。
そうまで排除しなければならないほどあの娘は罪を犯したのだろうか。
本当に何の関係もないのだとしたら、彼女が不憫で哀れだ。
余計な憎しみを生み出しかねない。
つくづくこのところ甘く柔らかくなったと思う。これが妻子を得た効果だろうか。
もっとも、司馬懿の策ではその憎しみごと刈り取るようだが。
この男が曹丕の最側近としてこの国を導いていくことになるのかと思うと、賈クは得体の知れないおぞましさを感じた。
かつて曹操の元で先に逝った戦略家や軍師たちを策を練っていた時代とは変わったのだ。
件の公主については、かつて自分もちょっとした嫉妬心にも苛まれちょっかいをかけたことがある。
間者を孫呉に潜り込ませ消息を探らせたのだ。
結果は失敗したが、口封じをしなければならないほどに秘匿している存在がいることはわかった。
司馬懿もこれら顛末をどこからか聞いたのかもしれない。
于禁帰還に合わせ手下を忍ばせ目ぼしい人物を拐すなど、出汁に使われた于禁が知れば大いに嘆き悲しみ、そして憤るだろう。
誰もやりたがらない于禁付きの女官を率先して勤め上げるような変わり者が公主であるものか。
その接近は孫権がおそらく最も警戒するもので、孫呉にいるという彼女の夫とやらも断固阻止するはずだ。




「ふん、存外しぶといものよ。我が方の圧倒的優位な状況下でよくも持ち堪える」
「こういう状況だからこそ踏ん張る力ってのもあるのさ。城外に凄まじい速度で迫ってくる一団があると報告が入っている。于禁殿だろう」
「ではそろそろ決着をつけるとするか。斉射せよ」



 ひゅううと風を裂く音が一斉に鳴り響き、たった2人の敵へと吸い込まれていく。
見下ろした先にはきっと、ハリネズミと化した遺骸が仲良く横たわっているはずだ。
これで本当に誘き出せるのだろうか。



「全軍突撃! 友軍を援護します!」



 どこからか猛然と現れた古ぼけた馬車が、2人の前に止まり斉射を浴びる。
盾となった馬車からは火矢を射てもいないのに炎が噴き始める。
炎の壁に遮られ、仕留めたはずの獲物が見えない。
まさか于禁か。いやだが彼には火計を操るような戦法はなかったはずだ。
ではいったい誰が。
ひとりしかいない。曹魏の地であれだけの火力を発揮できる恩恵を受けることができるのは、待ち焦がれたあの女しかいない。



「斉射を続けよ、新手ごと殲滅する」
「司馬懿殿」
「あんなものを見過ごせるわけがなかろう。陛下の・・・いや、この司馬仲達に楯突くとどういう目に遭うか、その身をもって知らねばなるまい!」

「何の騒ぎだ、仲達」




 随分と暑苦しいが、宴の支度か?
妻を連れ悠然と現れた曹丕は、城外での攻防へ視線を落とし目を細めた。







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