縁儚し恋せよ姫君     序







 ねえ、あなたも初めて兄様の国に来た時はこんな気分だった?
どんなに玄徳様に優しくしてもらっても、結局は私は余所者でしかないのね。















 そろそろ独り立ちを本格的に考えるべき時が来たのかもしれない。
はようやく仕事を片付け休憩がてら立ち寄った市場の甘味処で、今後の身の振り方について真剣に悩んでいた。
こちらでの身元引受人にして果てしなく遠戚らしい陸遜宅は、何不自由ない生活を送ることはできるが居心地はあまり良くない。
何もしていないのに部屋の前には果たし状が置かれているし、こちらが少しばかり仕事に慣れてきたと知るや自身の残業を減らすために大量の雑務を寄越してくるようになった。
仕事をすることは苦痛ではないが、これらはすべて無賃労働だ。
どんなに仕事を手伝っても、手元には何も入らない。
必要なものは言えば用意するから問題ないと陸遜は言うが、そういう問題ではない。
陸遜は名家の出身で、こちらもこちらで元が公主なので金銭感覚が双方ともにやや狂っているとは知っている。
しかし、自分の稼ぎで生活してみたくなるのだ。
それに、こちらのことを好きでもなんでもない陸遜に養ってもらうのも口にこそ出さないが嫌だった。
どうすればいいのだろう。
は寂しすぎる懐を思い、小さく息を吐いた。
お金のことを考える生活を送るとは、これほどまでに大変だったのか。
は江南の地へやって来て初めて、生活の難しさを知った。





「公績殿にもご迷惑はおかけしたくない・・・」





 凌統は、ほぼ毎日何か欲しい物はないかと尋ねてくる。
よほど何かを与えたいらしいが、彼には申し訳ないが買ってもらってまで欲しいと思えるようなものはない。
何も言わずに与えてくれたら喜んで受け取るのだろうが、ねだる行為は浅ましい気がしてできない。
早く俺の家に来ればいいのにとも言ってくれるが、それは2人で決められる話ではなさそうな気がする。
人々はいったい、どうやって金銭を稼いでいるのだろうか。
肉まんを追加で頼む金もなくしょんぼりと茶を啜っていたは、突然店の奥から響き渡った怒声と悲鳴、そして物が倒れる音にゆっくりと目を閉じた。
短い安らぎの時間をけたたましく無粋な雑音で邪魔しないでほしい。
は立ち上がると、そっと店の奥を覗き込んだ。
いかにも不逞の輩と言ったごろつき男が、店の主や娘に難癖をつけているように見える。
一見平和に見えるが、さすがは男女ともに血気盛んな人々が多く住まう土地だ。
力に物を言わせて我を通そうとするとは、男の風上にも置けない。
は眉根を寄せると、男たちへと歩み寄り店主との間に割って入った。
割り込んだ人物が腕の立つ屈強な兵にでも見えたのか、年老いた店主が震える声でお助け下さいと哀願する。
は黙ってごろつきたちを見上げると、はしたないと言い捨てた。
捻り殺せるような小娘に馬鹿にされた男たちが一斉に色めき立つ。
怒りで頭に血が上った男の1人が、奇声を上げにつかみかかろうとする。
は軽く身を捩り攻撃をかわすと、勢い余って地面に転がったごろつき改め猪男を見下ろした。





「これ以上騒ぎを大きくしたい、あるいは騒ぎ足りないというのであればここではなく牢の中でなさったらいかがでしょうか。安らぎを、美味しさを求め訪れる地を荒らすなど無粋な」
「けっ・・・、金がなくてちまちま1個食べてた貧乏人風情が何が安らぎだ! てめえも俺らの騒ぎに紛れて肉まん代踏み倒すんじゃねぇのか!?」
「・・・他に、言い残したことはございませんか?」
「あんたみたいな奴でも簡単に金稼げるとこ教えてやろうか? 嬢ちゃんみたいな別嬪は高く買ってもらえるぜ?」
「確かに、わたくし1人ごときを取り返すためにあの方は万余の兵を屠ったそうですが・・・」
「ああ?」
「わたくしもどうやら、この地へ来てここの方々の血の気の多さが移ってしまったようです。嬉しゅうございます、皆様に少し近付けたような気がして」




 父上は徐州で10万の民を斬り捨てたので、父上に似てきたのかもしれませんが。
はぼそりと呟くと、高く売れるらしい顔に綺麗に笑みを刷き懐に手を入れた。
命知らずなことしないで下さいようと泣き言が店外から聞こえ、男に止めを刺すのを一時中断し声の主を探す。
やっと来てくれた。
来てくれなかったら、このまま激情に身を任せてごろつきを灰にしていたかもしれない。
は甘寧の子分に男たちを預けると、店の隅で怯えている店主と娘に申し訳なさそうに頭を下げた。




「驚かせてしまい申し訳ありません。お店の修繕費は私も養われている身ゆえすぐには出せませんが、頂いた肉まん代はきちんとお支払いいたします」
「姐御ぉ、肉まんくらい兄貴が10個でも20個でも、つーか俺らに2個くらいなら奢らせて下さい! 姐御ともあろうお嬢様が俺らよりも貧乏なんて哀れすぎます!」
「いいえそれはなりません。肉まん、大変美味しゅうございました。また、お金が貯まったらこちらへ来てもよろしゅうございますか?」
「と、とんでもない! あなた様のような腕の立つお嬢さんは初めて見ました・・・! お嬢さんさえ良ければこのまま店で働いていただきたいくらいです!」
「え・・・?」
「もちろん給金もお渡しします、肉まんも1個と言わずいくらでも! わしも娘も、あなた様のような方がいれば安心して商売を続けられるというものです」
「じいさんそりゃ無茶な話だぜ。なんてったって姐御はあの凌と「では3日後よりこちらにお伺いいたします。ふふ、これでわたくしも養い主から独立できます」




 世間知らずもいい加減にして下さい姐御、冗談きついっす姐御兄貴たちびっくりして毎日来ますって!
市場が賑やかになると金の巡りも良くなり町が大きくなると、いつかここでは名を出せないとある方がおっしゃっておいででした。
ようやく見つかった独り立ちの入口に立ち笑顔にを、店の隅から青年がじっと見つめていた。







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