縁儚し恋せよ姫君     5







 孫権やその側近たちは、なかなかに強かな将揃いのようだ。
赤壁の戦いでは劉備と手を組み父の軍を火の海で燃やし尽くし、また、合肥では猛将太史慈を喪うという手痛い被害を蒙ったにもかかわらず、今は憎き曹操軍と同盟を結んでいる。
交通の要衝にして荊州の要江陵を手に入れ関羽を撃退するためというが、潔い変わり身の早さには呆れを通り越して感心してしまう。
大局でぶれることなく決断を下すことができる孫権もまた、乱世を生き抜くに値する英雄なのだろう。
は客が去った後の皿を片付けるべく店の外に出ると、からりと乾いた青い空を目を細めて仰ぎ見た。
よく晴れた日に英雄は死なない。
かつて天下無双の武勇を誇った呂布は、下ヒの地で水攻めに遭い父に敗れた。
水攻めによって曹仁守る樊城を陥れようとした関羽も、後援に現れた凌統ら孫権軍によって囚われ、そして息子関平と共に斬首された。
父が愛し、夏侯惇も認めていた関羽将軍も死んだ。
劉備や関羽に直接会ったことはないが、父の話によれば劉備、関羽、張飛は義兄弟の契りを固く誓い合った仲だという。
心から愛していた関羽を殺され、そして、張飛を暗殺した下手人が孫権軍に降ったという現実を目の当たりにした劉備の心中を察するのは難くない。
今度の戦いは、誰も死なないようによく晴れた日がいい。
乱世に生まれ育ち2つの国で生きることになったは、戦の兆候を感じることができるようになっていた。





「尚香殿は、やはり・・・」




 戦になれば、尚香は出陣するのだろうか。
政略結婚とはいえ一代の英雄として劉備を慕っていた尚香だから、夫が出陣するとなれば自身も従軍するはずだ。
しかし、尚香が出陣するということは即ち祖国に刃を向け、兄や江南の地で親しんだ凌統や甘寧たちと殺し合いをするということになる。
祖国に背を向けると決めていても、いざかつて慣れ親しんだ地で知り合った人々と戦うのは辛い。
尚香には辛く、複雑な思いを抱えながら得るものが何もない戦いをしてほしくない。
もしも尚香がこちらに弓引くことがあったとしても、放たれた矢が刺さる相手は孫呉の人間ではならない。
孫権治める地に住みながらも孫呉の人間ではない者、それは数えるほどしかいない。
戻ろう、今は肉まんや自立よりももっと大切な、やらなければならない、やりたいことがある。
は慣れてきた平和そのものの茶屋にしばらくの暇を申し出ると、戦支度に追われているであろう宮城へと引き返した。

































 関羽と戦い首を刎ねた時から、こうなることは予想できていた。
怒りで我を忘れた劉備が周囲の諫言に耳を貸すことなく自ら兵を率いて攻めてくると、そこまで見越した上での荊州制圧だった。
将としても一個人としても慕っていた呂蒙が病に倒れ、先の戦いで雨が冷たく降りしきる中で卒したのは唯一予想できず、したくなかった悲劇だったが。
呂蒙が成そうとしてできなかった遺志はすべて引き継ぐつもりだ。
陸遜は先遣隊の報告を書きこんだ地図を肴に苦い酒を呷っていた。
大将を任ぜられた者が軽々しく前線に出てはならないことはわかっている。
しかし、自分以外に策を巧く成功させられる優れた策士が見つからない。
大軍を引き連れ押し寄せた劉備軍を一網打尽にする最適の作戦は、敵をぎりぎりまで引き寄せた絶妙の場合で発動してこそ真価を発揮する。
甘寧は敵陣に切り込ませるには一番の破壊力と機動力を持つが、いかんせん頭がない。
凌統は無茶をしない周囲をよく見た手堅い守戦を得意とするが、大軍を相手にしての防戦と策の発動を同時に任せるには不安が残る。
朱然は誠実で度胸もある男だが、戦況を読む目がない。
どうすれば良いのだろうか。
手酌で酒を注ごうとした陸遜は、あるべきはずの酒器をつかみ損ね顔を上げた。
明かりの隣で、酒器を手に佇んでいる若い娘がいる。
陸遜は額に手を当てると、酒を取り返すべく手を出した。





「返して下さい。それともあなたが酌をしていただけるとでも?」
「お望みとあらば。ですが、これ以上酒を口になさるより先にわたくしの話を聞いていただけませぬか?」
「あなたに決闘以外の用はないので手短にお願いします」
「決闘の前に、わたくしの今の実力を測られたらいかがでしょうか」
「・・・ほう?」





 は陸遜の向かいに腰を下ろすと、じっと地図を見下ろした。
軍師ではないから彼の考えているすべてを読み解くことはできないが、劉備軍の蛇のように長く連なる陣営に策を弄することはわかる。
そしてその策が何かということも、もしかしたらという予感はした。
だから陸遜に申し出た。
陸遜はを真っ直ぐ見つめると、駄目ですと言い捨てた。




「危険です。関羽、張飛を喪い怒りに狂っている劉備軍は見えた敵はすべて倒します。殿が太刀打ちできるはずがありません」
「それは誰が行こうとも同じこと。ですが、慣れぬ者よりも少しでも心得がある者が策を行った方が良いのではありますまいか」
「正論ですね。確かに、私が飛び込んだ瞬間に自室を灰にする殿の火計をもってすれば、私の策は成りましょう。ですが、それでも私は殿を戦場へは出せません」
「劉備軍との戦こそ、わたくしが何も思わず戦う唯一の機会だというのになにゆえ陸遜殿は一言、わたくしを使うとおっしゃらないのですか」




 兵の上に立つ将たるもの、いついかなる時であっても決断はなさるべきでございます。
淀みなくきっぱりと言い切ったに、陸遜は沈黙の後頭を下げ、小さな声でよろしくお願いしますと呟いた。







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