ベテラン恋愛初級者の夜







 いつからこんなに奥手になってしまったのだろうか。
昔はもっと欲望に忠実に我慢せず快楽を貪ってきたのに、まるで今の自分は牙を失った老虎のようだ。
どこで覚えたのかわからないがとにかく蠱惑的だったの潤んだ熱っぽい瞳に見つめられ、想いをぶつけようとして手を引っ込めた当時を思い出すと未だに壁に頭を打ち付けたくなる。
何が熱があるだ、何が怪我人だ、そんなものはただの逃げ口上にすぎない。
他人に情を求めることなどかつて一度もなかったがようやく見せてくれた甘えらしきものを、恥ずかしさと驚きから拒絶してしまった自身が愚かしくてたまらない。
俺、どうしちゃったんですかねえ。
馴染みの邸宅で苦い酒を飲んでいた凌統が、馴染まれてしまった邸宅の主陸遜に縋るような目で尋ねる。
男の上目遣いなど見たくもない。
陸遜は絶望から机に伏せたままこちらを見上げる凌統をちらりと見下ろすと、どうもしてないですよと冷ややかに答えた。
凌統は本当にどうともなっていない。
どうにかすればいいどころか、どうにかしなければならなかったことを何もしなかった。
好きをこじらせると哀れだ。
大切にしたいという思いをこじらせると厄介だ。
どうやら凌統は本当の本当に心の底からを想い愛しているらしい。
むしろ愛しすぎだとも思う。
陸遜と、酒の匂いを嗅ぎつけたのか呼んでもいないのに来襲していた甘寧は、に対する思いを語り続ける凌統の口元を呆れながら眺めていた。





ってさ、すごく綺麗じゃん」
「・・・そうか?」「そんなことはないと思いますが」
「・・・おい」
「いや、公主さんは別嬪だけどすげぇ美人ってわけじゃないだろ」
「そうですね、殿は遠戚の贔屓目に見ても少し目立つ美人程度だと思います」
「いや、まあそうなんだけどそうじゃなくて! ・・・ってさ、すごく心が綺麗じゃん。真っ白って感じで」
「公主さんほどおっかねぇ女そういないと思うぜ。火計使うわ敵兵殺すわ単身敵陣に突撃するわ。見た目綺麗だからやってることえげつなく見えてないだけだろ」
「甘寧、俺に喧嘩売ってんのかい?」
「はあ、なんでだよ」




 わかっていない連中だ、こんな奴らに相談を持ちかけたのがそもそもの間違いだった。
陸遜も甘寧も女心どころか、恋人を持つ男心すら理解していない。
人を愛するというのは甘美だが、とても大変で難しい。
傷つけたり怖がらせたくないから大切にしようとすればこちらの身が保たないし、いざ迫られ甘えられても耐えられない。
一度箍を外せば相手の意思を置き去りにして滅茶苦茶にしてしまいそうだから、初めから行動に移すことを躊躇ってしまう。
大切にしようとすれば向こうは大切にされすぎていることに対して腹を立てるし、しかしきっとは無理強いをされても機嫌を損ねるだろう。
は他のきゃあきゃあと訳もなく騒ぐ女とは一癖も二癖も違う。
と親しく付き合ってきたはずだが、未だにの許容範囲がわからない。
凌統はについて何ひとつ理解できていない自身に苛立ちを隠せず、ぐいと盃を呷った。





「俺、本当にのこと好きなんだよ」
「知っています」
「大切にしたいって気持ちとちょっとくらい滅茶苦茶にしてもいいかなっていう2つの気持ちがあって、で、俺はこないだは大切にしたいって思いすぎてにそっぽ向かれたってわけ」
「お前よう、そんなに大人しい奴じゃなかったろ。公主さんに相当やられてんな」
「ああもう一撃でやられたね。いつもつんとしてるが、具合悪かったってのもあるんだろうけど金輪際一切しないんじゃないかって甘えた顔して俺呼んだんだ。耐えられると思うかい?」
「耐える必要なんてあるわけねぇだろ。男なら何も言わず抱く、それだけだろ」
「だよなあ・・・」
「・・・だからあなたは愚か者なんですよ」





 見るな、そんな目でこっちを見るな。
驚きと呆れの籠った目とアホ面で見るな。
軍師さん、あんたどうして俺を蔑んだ目で見るんだよ、あんたにその目向けられる意味わかんないっての。
先日の愚か者と呼ばれるに至った出来事を思い出し、居た堪れなくなり再び酒に手を伸ばす。
酒瓶に伸ばした手を陸遜にぱしんと叩かれ、凌統はむっとして陸遜を睨みつけた。




「酒に逃げるのも愚か者ってかい?」
「ええ」
「・・・人が何て言おうと、俺にはが綺麗すぎるんだ。踏み込みすぎたら、大切にしたいはずのをよりによって俺が汚しちまいそうで怖いんだよ」
「馬鹿馬鹿しい」
「そりゃ軍師さんにはわかんないさ。愛する女に触れるってすごく勇気いるんだよ」
「凌統殿、もしも殿が暴漢に襲われたらどうしますか?」
「男を殺すね。実際殺してやろうと思ったこともあったしねえ、殺せなかったけど」
「どうして殺そうと思うんですか?」
が乱暴されたからに決まってるだろ」
「では、凌統殿はご自分が殿を愛すると自分も殺そうとしますか?」





 陸遜の問いが何を意図しているのかわからず、はあと返答を返す。
を愛することが死に繋がると考えたことは一度もない。
愛してはならない人を好きになったとは思ったことはない。
いったい陸遜は何を言いたいのだ。
きょとんとした表情を浮かべたままの凌統に、陸遜は大げさにため息をつくとやはり愚か者ですねと言い放った。





「私は自分を汚いと思ったことは一度もありません。なぜなら私が愛する人に抱く想いは正直で、後ろめたいことは何ひとつないからです」
「言うじゃねぇか。こいつぁ凌統より肝が据わってらぁ」
「私が愛する人に触れるのは触れたいからです。他に理由なんてありません。汚すだなんてとんでもない、私の混じりけのない愛のどこが汚れているのかと逆に私は問いたいくらいです」
「軍師さん、もしかしてそれ言って実行「しますよ。当たり前じゃないですか。相手だって受け止めてくれますよ」




 負けた、ありとあらゆるところで負けた気がする。
奥手どころか女性とのあれこれを煩わしいと思っていた陸遜が、一歩も二歩も三歩も先を歩いている。
いや、彼は歩いてなどいない。
高速船に乗って、必死に手を掻き足をばたつかせ泳いでいるこちらとの距離をぐんぐん引き離している。
陸遜のように割り切れない。
無理だ、そこまで割り切った上で行動すれば今度はに呆れられてしまう。
はやることなすこと火を使い熱い女性のように見えるが、普段は父にでも似たのかかなり冷ややかな娘だ。
羽目を外せばは困り顔で窘めてくるに決まっている。
との付き合いで重要なのは勢いではなく、勢いを気を見て抑えることができる節度だ。
凌統はこほんと咳払いすると、それは俺にもできますかねと引きつった笑みで尋ねた。




びっくりするんじゃないですかね」
「奇襲も立派な戦法です、ねえ甘寧殿」
「おうよ! なんなら俺が先鋒で行ってきてやろうか?」
「余計なお世話だっての」




 笑えない冗談を飛ばす甘寧を睨みつけ、頭を二、三度振り酔いを覚ますと寒く冷え込む外へ出る。
今日は寒いから、温まろうかなどとに声をかけてみようか。
彼女がいる離れに向かうには、先の戦いのための訓練と称し埋められたままになっている爆弾庭に入り込まないように遠回りしなければならない。
大丈夫だ、遠回りには慣れている。
と心を通わせるためにはいつも遠回りしかしていないから、庭の迂回などは物の数にも入らない。
今夜こそに思っていることをすべて伝える。
陸遜のように開き直りやりたいことをやりたいと包み隠さず伝えて、そして受け止めてもらう。
の寝所を訪ねた凌統は、母屋の騒ぎも聞こえなかったのか健康的な寝息を立て眠っている愛しの姫君に、数分前までの決意をすべて心に仕舞った。








あとがき
たぶんこの後、凌統は寝顔見てちょっと笑って満足して帰ってきます。
『ヘタレ』とか『奥手』とかは、揶揄するためにある言葉じゃないなと思いました。
『いのちだいじに』って加減に悩みます、過保護すぎて。



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