かたきどもの遠吠え     終







 以前にも増して、ぎこちない。
そもそもこんな形になってしまったのは李典ひいては魏公曹操のせいなのだが、それを口にできるほど馬鹿ではないつもりだ。
はこほんと小さく咳払いすると、目の前に座る縁談相手に向け深々と頭を下げた。




「・・・先日は上司が大変失礼をいたしました」
「なあ・・・、賈ク殿とはいつもああなのか? 別に今の立場じゃなくてもありゃどうかと思うぜ、俺」
「いつもは違います。毎日あれなら私はとうに殿に訴えています」
「じゃあ今回は完全に俺への当てつけか。やばいな賈ク殿」




 一番やばいのは、そんな賈クに目をつけられてしまっただろう。
予期せぬ男から突然縁談を吹っかけられたと思ったら、上司の参戦である。
やぁやぁ李典殿、貴殿の大事な婚約者殿はこの俺がこうやってお守りしていますのでご安心をあーはっはと横抱きにされたまま豪語されて、大人しくしていられるほどは箱入りではない。
こちらが状況を認識するよりも先にが賈クにお見舞いした、渾身の張り手からの足蹴は圧巻だった。
止める間もなく賈クが泥まみれになった。
仮にも上司に向けてやっていい行為ではなかった。
ああまでボコボコにされてなお彼女を部下として置き続けている賈クは、自分とは全く違う方向で心の底からを愛しているのだろう。
厄介な男からしか愛されない彼女がほんの少し不憫だ。





「今日は隊はいいのか?」
「今は謹慎中です。あそこまでやってしまったらさすがに他の人の目もありますし、一応けじめはつけないと・・・」
「大変だなあ・・・。そんなんでもまだ賈ク殿に付き合ってやるんだろ、物好きにも程があるぜ」





 この縁談の結末はわかっているつもりだ。
勝ち目なんてものは万に一つも見えてこない。
酷い上司と口では扱き下ろしながらも話すの表情はとても穏やかで、かつて彼との間で何があったか知っている者は皆、驚くと同時に安堵すると思う。
他でもない自分自身もそうだ。
これから振られてしまい悲しむはずなのに、が元に戻ったようで嬉しいのだ。





「で、さんよ。あんたに惚れて求婚したもうひとりの物好きへの処遇をそろそろ聞かせてくれないか。さすがに待てはもう無理だ、俺」
「・・・」
「答えはとっくに決まってんだろ。この話出した時即行で断り入れようとしたのを俺、止めたろ」
「・・・まあ、そうなんだけど・・・・・・」
「俺がもう長くないから憐れんで悩んでるっつーんならやめてくれ。が嫁に来たらすぐ元気になっちゃうから、俺」
「は?」





 あらゆる本音をまるで冗談のように口にすると、が半ば切れたような声音で問い質す。
迂闊なことを言えば、次に足蹴にされるのは我が身かもしれない。
人死にに慣れてしまっただ。
たとえ相手が病人や怪我人だろうと手加減しないことは、先人たちの実践で織り込み済みだ。
李典が何か言いたげに口をもごもごとさせているを見つめた。
優しい、いい子に育ってくれた。
もう何も心配することはない。
彼女には、彼女を愛し守ってくれる人がいる。
もやがていつかはその男のことを好ましく思うようになるに違いない。
一足も二足も先に旅立って行った連中に聞かせたら、なんとも複雑な顔をされそうだが。





「・・・李典、今回のお話はお断りさせて下さい」
「そうか。んな気はしてたけど、ついに振られたのか俺」
「小さな頃に殿や典韋に拾ってもらって、それからずっと育ててくれた李典は私にとってはとっくに家族で、兄のようなものなんです。兄のように慕ってきた人を今更夫としてなんて見られない」
「俺ものことは手のかかるやんちゃなガキとしか思ってなかったんだけどな。いつから目の色変えたんだ、俺?」
「誰かに唆されてその気になった、とか・・・」
「そんなに馬鹿じゃないだろ、俺。でもま、人の気持ちなんて変わるものだしな」
「そうですね」





 李典は痩せたように見える。
長く生きられないというのは事実なのだろう。
戦場には出ずこれからは内政に力を入れると話していたが、無理はしてほしくない。
ゆっくり養生しろと言っても聞かないのが曹操軍の勇士たちなので、だったらせめて好きなことをしてほしい。
李典とひとしきり世間話や昔話をしていたは、ふと思い出しあのうと声を上げた。





「ん? どうした?」
「李典に、いや楽進でも良かったんだけど李典におねだりしたいものがあって」
「ああ、はい、やるよ」
「え、どうして知ってるの」
「そんな気がしてたんだよ。樊城でお前滅茶苦茶な格好してたけど、女なんだからもう少し気を遣った方がいいぜ。俺ら3人、揃いの首巻きしてないと様にならないだろ」
「知ってたんだ・・・」
「当然。嬉しかったんだぜ、が戦場に出ることは置いといても俺らを真似てくれたのは。・・・俺はもう使わないし、大事にしてくれ」
「ありがとうございます。・・・えっ、思ったよりもすごくいい生地・・・もしかして新品?」
「とっておきだからな。婚礼衣装にもーって考えたけど相手は俺じゃなかったな!」




 そう豪快に笑い飛ばす李典の顔は、見慣れた家族で、兄同然の男のものだった。





































 腹に一発、頬に二発、腰と背中に複数回。
ここでくたばっては死ねなくなると意味のわからないことを考えながら耐え続けた部下の反乱の跡は、今もしっかりと体に刻まれている。
こちらが何も言っていないのに謹慎しますとのたまい勝手に隊を離れた彼女は、今頃は謝罪行脚だろうか。
李典はもちろん、場を仕切った曹操や程昱にも頭を下げているのだろう。
真面目な娘である。
羞恥と怒りで我を忘れ、わずかの間ではあったがいつかのように殺意を瞳に滾らせた女性と同一人物だとは思えない。
落ち着いたのであれば、自らが振るった暴行の跡もじっくりと看病してほしい。
賈クは鍛練場で慣れない剣を振るいながら、の謹慎が解ける日を待っていた。





「精が出るな、賈クよ」
「これは殿、夏侯惇殿」
「珍しいな、お前が剣を握るなど。よほど樊城が堪えたか」
「部下の綺麗な太刀筋を見ていたら、俺のこのままではいかんと思いましてね」
が世話をかけたようだな。先程わしの元へ謝りに来たぞ」
「李典殿とは上手くいくと思い俺も上司として挨拶したんですが、いやはや男女の仲は奥深い。そう思いません、夏侯惇殿」
「俺に色恋の話を振るな。だが・・・いつまでもこのままという訳にもいくまい。曹仁の話を進めてやったらどうだ、孟徳」
「曹仁殿?」





 また自分の知らないところで話が進もうとしている。
今度は曹仁の何だ、何がに起ころうとしているのだ。
これでは鍛練どころではない。
確かにとの相性は良くない。
どんなにが穏やかになろうが、彼女を娘のようにべた可愛がりする父親気取りの諸将は気にしてしまうのだろう。
気持ちはよくわかる。
自身が胡散臭いことは自覚している。
それでもだ。それでも、しかいないのだ。
彼女しか愛せなくなってしまったのだ。





「あっ、殿、惇兄おじさん!」
「おお、お前か。も」




 姉ぇの稽古に付き合わせてもらってたんだとにこにこ笑いながら駆け寄ってきた夏侯覇と、遅れて現れたの姿を認める。
えらく久々に見た気がする。
もこちらに気付くや否や穏やかな表情を一変させ、むうと眉根を寄せている。
今日もいい顔だ、特別視されていると感じる。
夏侯覇はの手を引くと、曹操にぺこりと頭を下げた。





「殿、姉ぇはほんとにいい人なんです!李典殿のことは残念だったけど次は絶対! 大丈夫なんで! 俺が保証します!」
「やめて下さい夏侯覇殿、私は別に今のままで」
「駄目だって姉ぇ! なあなあ賈ク殿だってそう思うでしょう?」
「夏侯覇殿」
「もちろん。俺なら喜んでいつでも迎え入れるんだが」
「えっ」「ほう」





 ぴたりと同時に固まった曹操と夏侯覇を尻目に、に歩み寄る。
呆れ気味にため息をついている辺り、薄々勘付いていたのかもしれない。
気付いていた上であの凶行だとしたら、彼女の真意はどこにあるのだろう。
好いた男にああはしないと思うが、むさ苦しい男所帯での生活が長かっただから常人とは違う信念のもと拳を振るうこともない話ではない。
何はともあれ、話は始めた。
後の展開は次第だ。





「お前ら、そういう話は余所でやれ。、落ち着いたら俺の元へ来い、お前に係わる大事な話がある」
「また縁談でしたら、私はもう・・・」
「たわけ、それほど嫁ぎたいならそこの軍師で手を打ってやれ。婚礼衣装は淵からもらっていたろう、いつでも行け」
「また増えたんでした、そういえば・・・」






 熱烈な視線を無視することもできず、今や求婚相手となってしまった上司を顧みる。
にやにやとした笑みに愛情を注ぐ日が来るのだろうか。
愛してもいいのだろうか。
答えを教えてくれる人はもういない。
しかしきっとこう言ってくれるはずだ、が幸せになれるのならそれが一番だ、と。





「あの、賈ク様」
「んーどうした、もう返事か?」
「・・・考えさせて下さい」




 即で断られなかったのだから、これは勝ったも同然だ。
はこれからもどんな形であれ傍にいてくれる。
賈クはもちろん喜んでと余裕たっぷりの笑みで答えた。









  ー完ー







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