恋人は天使か悪魔          4









 はほんの少し怒っていた。
特別趙雲が悪いわけではないのだが、彼に対して拗ねていた。
どうしてあの時生真面目に馬超の妹と紹介してしまったんだ。
劉備様との恥ずかしい出会いを思い出してしまったし、諸葛亮様に目をつけられた感が拭えないではないか。
2人に会った時、なぜだかは諸葛亮の視線が怖かった。
これから良からぬことに巻き込まれそうな、そんな嫌な予感がした。
女の勘だなんて洒落たものではない。これは紛れもなく野生の勘だった。





「趙雲殿、今日私が劉備様たちに会ったこと、内緒にしてもらえますか?」
殿がそう言うのであれば私は黙っておくが・・・、いったいなぜ?」
「兄上たちに知られたくないんですよ。・・・なーんか妙なことに巻き込まれそうな気もするし・・・」
「まさか戦に? そのようなことはないだろう、殿は武将でも兵でもないのだし」
「そうなんですけど・・・」





 趙雲が言うとおり、何事も起こらないことをは望んでいた。
戦に赴く兄や恋人を見送ることはどんなに回数を重ねても寂しく不安なことだが、それが自分の役目だと信じていた。
戦場を突っ切って逃走したり弓矢に追いかけられたりしたことはあっても、決して武器は手にしないと思っていた。
しかしのささやかな思いは、数日後馬超たちが出払っている時間を見計らうかのように現れた諸葛亮によって、大きく揺らぐことになった。































 諸葛亮が馬家の屋敷を訪れた時、は裏庭で先日採ってきて日干しにしていた薬草を片付けていた。
装いも農作業従事のために質素、顔も手も程良く汚れていたところに突然の来訪である。
は大急ぎで支度を済ませると、客室に待たせたままの諸葛亮の前にやっとのことで現れた。
ゆったりと羽扇を扇いでいた諸葛亮の手が止まり、静かにこちらを見つめてくる。
笑みと簡単に片付けてしまうのは可愛げのない、そんな表情がをますます不安にさせた。
戦に従軍する兄たちがいない間に訪問とはどういうことだろうか。
は諸葛亮の真意を知りたいような知りたくないような、複雑な思いを抱いた。






「お待たせしてしまい申し訳ありません。あの・・・、兄たちは今出かけてるんですけど・・・」
「いいえ、今日はあなたに話があるのです、殿」
「私にですか?」





 あなたには薬学の知識がおありなのですね、と諸葛亮は切り出した。
全くないと言えば嘘になる。
真面目に誰かに教えを乞うたことはないが悲しいかな、流浪と逃亡生活が長かったのでそこらへんに生えている草で傷を癒すしかなかったのだ。
ほとんど独学と言ってもいい。
しかし、なぜ諸葛亮がそれを気にする?
成都の片隅に住んでいる娘のちょっとした、特技とも言い張れないような遊びもどきなのだ。
誰かにとやかく言われたり非難されたりするような毒草を使った覚えはなかった。





「我が軍は武に長けた者は多く集まりました。張飛殿や趙雲殿、もちろん馬超殿も」
「そうですね・・・」
「しかし、智に長けた者はまだまだ足りません。医術を心得た者も」
「・・・・・・諸葛亮様、私は」





 医術なんて知りませんと言いかけたの口の前に、諸葛亮は手にした羽扇を差し出した。
拒絶の言葉などはなから聞くつもりはないのだろう。
諸葛亮はにこやかに笑うと口を開いた。





「どうですか、我が殿や将軍方のために、医療班として戦に参加してくれませんか?」
「諸葛亮様、私は本当に医術なんて大層な学問を修めたことはないんです。それに私なんかが戦に行っても足手まといになるだけです」
「・・・聞けば、あなたはこちらに来る前に劉備様に助けていただいたとか。恩を返すつもりはないのですか?」
「返したいとは思ってますけど、それとこれとは話が別です!」





 冗談ではなかった。
自分が医者のような身分になって従軍?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
劉備軍はこんな、大した戦力にもならない小娘をも当てにしなければならないのか?
はここぞとばかりに劉備への恩を持ち出してきた諸葛亮に鋭い視線を向けた。
あの時のことは本当に感謝しているが、だからといって戦場で恩返しをする必要はないと思う。
劉備だって、そんな恩返しを期待してはいないはずだ。






「せっかくのお話ですが諸葛亮様、私にその任は重すぎます。もっと他の優れた方を当たって下さい」
「・・・武に聞こえた馬一族と言いますが、あなたはどうやら違うようですね」
「な・・・っ、一族を侮辱するおつもりですか?」
「滅相もない。ただ、あなたは正義の志をあまりお持ちでないようだと言いたかっただけです」
「・・・戦に出るのが正義の道だと説かれたいんですね」






 ふざけないでよ、とはぼそりと呟いた。
軍師だか何だか知らないが、好き勝手に正義の道とやらを説かないでほしい。
馬一族全員が兄のように暑苦しいばかりに正義を謳ってはいないのだ。
兄に正義を押し付けられるのは血縁者だということもありわかるが、赤の他人である諸葛亮に諭されるいわれはなかった。
正義感を持っていないわけではない。
兄とは発揮する場所も、方法も違うというだけだ。






殿、勘違いをなさらないで下さい。あなたに選択権などないのですよ」
「私の意思は無視ですか? そんなに戦場に駆り立てたいんですか?」
「兵は望みもしないのに徴兵され戦場へ赴きます。この巴蜀の地に住まう民である以上、あなたも望まぬ出兵を要請されます」





 女性であるという理由は受け付けません。
星彩殿も私の妻も、彼女たちに仕える兵たちも女性ですからと諸葛亮は言い放った。
それは違うとは叫びたかった。
あなたの妻も星彩も、2人の下で働く女性兵たちも、自ら志願した末の従軍なのだ。
拒否権も与えられず拉致同様に戦場へ借り出される自分とは心意気がまるで違う。
戦場へ向かうなど兄も従兄も、趙雲だって猛反対するに決まってる。
趙雲はともかく身内の反対まで押し切るつもりなのか、この男は。






「あなたには明日から専用の宿舎に移ってもらい、本格的に戦場での医療行為について学んでもらいます。戦場に着くまで馬超殿や馬岱殿とは会わずに済みます」
「横暴すぎます。少しばかり職権を濫用されているんじゃないんですか」
「何とでも。軍師とは、時として強行手段を講じる必要があるのです。それから、このことは馬超殿や馬岱殿はもちろん、決して他言してはなりません。趙雲殿や劉備様にも絶対に」





 言ってはならないのは、とても人から褒められるような所業ではないから。
こんなこと知られていいはずがない。
危険で非道なことをしている自覚は一応あるのだろう。
今日のうちに身の回りの荷物をまとめておきなさいと命じる諸葛亮の言葉が、には死神からの宣告のようにしか聞こえなかった。









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