女狐の艶笑     5







 自分勝手で、わがままな身内の言うことなんて聞いていられない。
大好きな人に逢いに行くのに、どうして他人の許可が必要なのだ。
祝福されない間柄ではないのだから、もっとたくさん逢いたい。
話していたい、一緒にいたい。
は趙雲の元へと向かっていた。
彼が自分を拒むはずがない。
余所のお嬢様のようにおしとやかじゃないところも、女だてらに馬を御すこともすべて受け入れてくれた素敵な人が、今になって自分のためにならないことをするはずがない。
どうして従兄はあんな酷いことをさらりと口にしたりするのだ。
可愛い妹分の幸せを願ってくれているのではないのか。




「あ・・・っ」




 の視界に、いつものように訓練場へ向かっている趙雲が映る。
彼の姿を見ただけで胸がときめく。
子龍殿、そう呼びかけ彼の元へ駆け寄ろうとしたの前に、いつぞや彼に抱きついていた美女がどこからともなく現れる。
美女はちらりとへ視線を移すと、口元を僅かに緩めすぐに趙雲へと向き直った。
そして、そうするのが当たり前とでも言うように、ごく自然に趙雲に抱きつくと首に両腕を絡めた。




「子龍っ!」
「・・・珠蓉? どうしたのだ、こんな早くからこのような場所に」
「子龍に逢いたくて来ちゃったの」
「・・・離れてくれないか珠蓉。私には大切な人がいるのだ、こういうことはあまりしてほしくない」
「あら、それってもしかしてあの子?」





 抱きついたままゆるりと首を捻った珠蓉につられ、趙雲は珠蓉の視線の先を見た。
呆然とした表情で立ち竦んでいる見慣れた娘が飛び込んでくる。
くるくるとよく変わる華やかな顔は、色が抜け落ちてしまったかのように真っ白だ。
やってしまった、見られてしまった、間違いなく今度こそ誤解された。
ついこの間、気を付けてほしいですと言われたばかりだというのに。




・・・!」
「ふうん、さんっていうの。可愛い子ね、お友だち?」
「違う。離れてくれ珠蓉」
「子龍に触れたくて抱きついたのに、どうして離れないといけないの? ・・・ねえ、せっかく久し振りに逢ったんだから、じっくり色々お話しましょうよ・・・」
「珠蓉!!」




 趙雲の怒声を受け、珠蓉は渋々と趙雲から離れた。
つまらなそうな表情を浮かべたかと思うと、くるりと趙雲に背を向ける。
諦めて帰ってくれるのだろうか。
できればもう二度と逢いたくない。
たとえそれが昔の友人だとしてもだ。
趙雲の願望は、迷うことなくの元へと歩み始めた珠蓉の行動によって打ち砕かれた。
珠蓉の接近に気付いたは、ともすれば怯みそうになる心と体に喝を入れ珠蓉を見据えた。
錦馬超の妹がたかだか女1人に怯むなど、あってはならないのだ。




「・・・何か?」
「あなたね、子龍の大切な人って。うふふ、とっても可愛らしいお嬢さんだこと」
「何のつもりだか知らないけど、子龍殿にああいったことするのやめてもらえますか」
「その言葉、そっくりそのまま返してあげる。涼州の田舎娘が私の子龍に近付くなんて身の程知らずね」
「馬家を侮辱するつもり!? 私だけならまだしも兄上たちまで貶めるなんて無礼にも程があるわ!」
「事実よ。子龍には私のような女が相応しいの。あなたなんかいらない、せいぜい馬の世話でもしてらっしゃい」
「なんですって・・・!?」




 珠蓉はうふふと笑うと、軽やかな足取りで趙雲の元まで戻り、再び彼の腕に両腕を絡めた。
の頭に血が昇り熱くなる。
怒りで爆発しそうだった。
子龍殿に触らないでと叫んで珠蓉と突き飛ばしてやりたい。
それができないのは、思った以上に彼女の言葉に深く傷つき立ち直れていないというのと、こんな往来で修羅場じみた事をやって趙雲を困らせたくなかったからだ。
悔しい、悲しい、苛々する。




「珠蓉、彼女に何を言った」
「いいえ何も。ちょっとご挨拶しただけよ。さあ行きましょう、子龍」




 珠蓉に急かされるようにその場を後にする趙雲を、為すすべなく黙って見送る。
趙雲も趙雲だ。なぜ何も言わずにあの女の言うとおりにするのだ。
少し見ればわかるだろう、彼女が自分に何を言ったかくらい。
そこまで考えが至らないのは人を疑わない趙雲の美点だが、今日はそれが仇となった。
今日だけではあるまい。
きっと明日も明後日もその次の日も、彼はあの女狐に大した疑念を抱くことなく接するに違いない。
このままでは愛する趙雲のことも嫌いになりそうだった。





「だから、あなたの手に負える相手ではないと言ったでしょう。しかし思った以上に憎たらしい女ですね」
「まったくだ。我ら馬家をああまで貶めるとは、よほどの命知らずだな」




 気が付くと、両隣に馬超と馬岱が並んでいる。
いつからいたのかはわからないが、会話の内容は聞いていたらしい。
あれを聞いてその場で斬って捨てなかったのは奇跡だ。
しかし、馬岱だけでなく兄まで知っているとは思わなかった。
こういった細やかな雑務はてっきり馬岱の仕事だとばかり思っていた。




、今度こそ私たちの言うことを聞きなさい。趙雲殿に会うのはこれが片付いてからにしなさい」
「子龍殿とお付き合いしてることについてはもういいんだ?」
「趙雲殿を差し置いて他の将の元に嫁ぐか? 文官ではお前の相手は務まらぬだろうし、まずもって断られるだろう」
「もっとも、あの方が珠蓉とかいう胸糞悪い女に篭絡されたら、私たちは全力での恋路を阻止します」
「子龍殿には言われたとおり当分逢わない。あの女、ほんとに大っ嫌い」




 不気味なまでに静かに怒りと闘志を漲らせる馬家生き残り3人組を、出仕途中の文官たちが恐ろしいものを見る目で遠巻きに眺めていた。







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