月夜に恋して     序





 待っててくれ。
必ず迎えに行くから、他の男の元になんて行かないで俺を待っててほしい。















 今日も良い天気だ。
このような爽やかな日に散歩をすると、心も晴れ渡る。
は、数人の侍女を連れゆったりと時間を過ごしていた。
突如として許昌へ侵攻した孫策軍は撤退後まもなく孫策が凶刃に倒れ、それきり息を潜めている。
目立った戦争が行われたことも聞かない以上、あの方もきっと息災なのだろう。
総大将ならともかく一介の武将の消息など知るはずもないは、凌統の生存を祈るよりほかなかった。
愛しい人だった。今もその想いに変わりはないが、だからといって何かが起こるわけでもない。
ただひっそりと誰に悟られるでもなく、ひっそりと心の中で愛しい人の名を呼ぶだけ。
は切なくなる思い出から離れると、周囲を見回した。
前方に父がいる。隣にいる武将は夏侯惇ではない。確か張遼と言ったはずだ。
かつて呂布に仕え、彼が死した後は父に仕え迅速の騎馬隊を操る将軍。
曹家に連なる者とはいえ戦いに赴かない自分との接点はどこにもなさそうだが、は張遼のことを曹操軍を支える重要な男だと頼もしく思っていた。





「公主、殿がお呼びです」
「そうですか」




 夏侯惇や夏侯淵でもないのに呼び寄せるとは珍しい。
今日の父上はご機嫌なのだろう。
激務からも解放されているのか、伸びやかな表情になっている父の元へは歩き出した。











































 張遼は、実はのことを知っていた。
ちらりとだが一方的に見たこともある。
以前夏侯惇の屋敷を訪れた際に、入れ違いで出て行った彼女を見ていた。
その時は公主とも、もちろんであるとも知らず夏侯惇から後で聞き初めて知ったのだが。
孫策軍との戦闘で、次々と突破され下がる士気を上げるべく自ら前線に赴いたという。
無茶なことをしてと夏侯惇は渋い顔をしていたが、結果として彼女の参戦によって士気が高揚し持ち堪えたのだから、張遼は苦笑するしかなかった。
とても武器を振るい敵を退けるような体躯には見えなかった。
宮殿の奥でかしずかれて着飾っている方が似合っていた。
何よりも、とても美しかった。
曹操が傍に置き続け可愛がる気持ちもわかる気がした。
そんな公主が目の前にやってくる。
戦場に出るというくらいだから実は苛烈な性格なのかと思いもしたが、張遼の前に現れた麗しい公主は大層上品な娘だった。






「お呼びでございますか、父上」
「お主を見かけたので呼んでみたのだ。これは張遼という、知っておるな?」
「はい。非常に強力な騎馬隊を指揮されると・・・」





 と申しますと言ってにこやかに微笑んだ彼女に、張遼はわずかの間だが見惚れた。
近くで見るとなおさらよくわかる。
なんと可憐な娘だろうか。
彼女が戦に出て督戦すれば士気も急上昇するわけだ。
何としてでも守り抜こうと奮起する。
予想以上の力を張遼自身も発揮できる気がした。





「お初にお目にかかります、張遼と申します」
「張遼、見た目に騙されるでないぞ。は単身戦場へ身を投じるような女よ」
「父上」






 困ったような顔をして父を咎めるを見て、張遼は頬を緩めた。
年の割には大人びた印象を持たせるが、こうしていると年相応に見えてくる。
微笑ましい父娘を眺めていた張遼は、ふと視線を感じ観察するのをやめた。
これは、観察されていたのはこちらの方だったか。
は張遼が自分の方を向いたことを確認し、ゆっくりと口を開いた。





「張遼殿はとても穏やかな目をなさっておいでなのですね」
「怖いとは思われぬのですか?」
「ここは戦場ではありませんもの。今は、父上の相手をなさっている方でございましょう?」





 父が妙なことを口にしたらごめんなさいと続けるに、曹操は大らかに笑った。
甘い、娘に甘すぎる。
男で次期後継者でもある曹丕と比べるのはおかしいが、に甘すぎる。
よほど曹操好みの聡明な娘なのだろう。
張遼は用があると告げ去って行ったの背を、失礼にならぬ程度に見送った。






「どうだは。父親が言うのもおかしいが、なかなかの器量であろう」
「は・・・」
「張遼、お主わしの娘を娶らんか」
「私がですか?」
「お主のは働きには目覚ましいものがある。次の・・・、孫権との戦いが終わった後には、わしの娘のいずれかをやろう」






 主君の娘を妻に迎える。
それがどんなに大きなことかはよくわかっていた。
信頼されている証だった。
出世も早くなるし、得る後ろ盾は限りなく強くなる。
しかし、張遼は姫君たちのほとんどを知らなかった。
躾に厳しいと聞くので、皆それなりに優れた女性なのだろう。
考えておくようにと言われ1人取り残された張遼は、改めて自分の女の好みについて考えてみた。
武人である以上、家庭を顧みる機会は少ない。
放っておかれても怒ることなく、きちんと武人の妻としての務めを果たしてくれる芯の強い女性が好ましいと思った。
それから、政治好きもいけない。
泥沼の醜い権力抗争に巻き込まれるのはまっぴらである。
派手好きもあまり好きでない。
派手好きは金の浪費も激しい。これは張遼の持論だった。
姫君というくらいだからまずいないだろうが、媚びる女など論外だった。
仕事に理解があり、控えめで凛とした聡明な女性。
果たしてこのような女性がいるのかどうかわからなかったし調べる術もなかったが、張遼は曹操の申し出を前向きに考えることにしたのだった。


















































 今日も良い天気だ。
このように清々しい日は、執務室に引き籠っておらずに外へ飛び出して思いきり体を動かしたいものだ。
も遠く離れた許昌で、この空見てんのかな。
俺が知らない間に人の妻になんてなってないだろうな。
意識を遥か北へと飛ばそうとしていた凌統の頭に、ごつりと木簡の角がぶつけられた。





「凌統、浮ついた顔ばかりせず少しは筆を動かさんか」
「なんだよ、せっかく人が物思いに耽ってるってのにつれないねぇ呂蒙殿」
「執務中に余計なことを考えるな! 一瞬の気の緩みが戦場での崩壊に繋がるのだぞ!」
「はいはい。さぁて、とっとと終わらせて甘寧の鳥頭と喧嘩の続きでもしてきますかね」





 ようやく真面目に机へと向かったはずの凌統に、再び呂蒙の叱責が浴びせられた。







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