月夜に恋して     12







 凌統は、目の前で繰り広げられている展開に混乱していた。
嬉しい、喜ばしき状態になりつつあることは辛うじてわかった。
しかし、なぜ彼なのだ。
確かに味方になるとは言ってくれていたし、それなりに期待もしていた。
具体的に何をしてくれるかまでは訊かなかったが、まさかこんな場所でこんな話をぶちまけるとは。
予想と期待の遥か斜め上をいく援護に、凌統は逆に不安を覚えた。



「・・・それは真か?」
「はい。彼女の母は紛れもなく我が一族の娘。曹操の姫君であると同時に、あの子は我が一族の娘でもあります」
「し、しかし、あの娘は我らが敵曹操の実の娘。我が国に害をもたらす存在をみすみす生かすおつもりか」
「ではあなたは、ようやく見つけた一族の者が死ぬのを黙って見ているおつもりですか? ・・・確かに、彼女は生きることを望んだことはありませんでした。
 しかし、彼女が生きることを望む者はいるのです」




 そうですよね凌統殿と呼ばれ、凌統ははっと顔を上げた。
真剣な顔でこちらを見つめてくる陸遜に慌てて頷き、彼の隣へと向かう。
孫権は現れた凌統を眺めふっと口元を緩めると、先程までの厳しい口調とは打って変わって穏やかに話しかけた。



「お前は本当に良い友を持ったな、凌統。これであの娘が我等に害及ぼすことあれば、今度はおまえ自身があれを始末せねばならんぞ」
「そんなことは絶対にさせません。・・・俺は、ずっと彼女だけを探していました。
 彼女を捕らえたことが功となるのなら、褒賞や地位は要りません。俺の傍じゃなくてもいい、彼女を俺の目の前から消さないで下さい」
「その言葉に二言はないな?」
「・・・ありません」





 が生き永らえたとしても、他の男に添うようになってしまったら、きっと大きな絶望を味わうだろう。
助けてくれと願い頼んだのは己だというのに、自分自身が幸せになれないのならば意味はないのかもしれない。
彼女には悪いことをしてしまったと、今更ながらに思うことがある。
付き合った頃に、一緒に来てくれと頼まなければ良かった。
無茶な願いを口にして彼女を困らせ、思いを告げて困らせ、勝手に連れて来て困らせ。
あの時何も言わずにただ別れていれば、今日のようなことは確実に起こらなかっただろう。
人間という生き物はわがままで自己中心的で、結局は叶わぬ夢でも追いかけ続けてしまう愚かな存在である。
ともう一度会いたくて、あわよくば一緒になりたくてここまで連れて来た。
その結果が彼女との離別だというのならば、いったいこの数年間、何のために彼女を想い続けてきたのだろうか。
凌統は唇を噛み締め俯いた。
もう、誰のことも愛せない気がした。
愛することがこれほど苦しいものだと初めて知り、恐ろしいと思った。






「公主をここへ」
「はっ」





 孫権の言葉に、人々の間からざわめきが沸き起こった。
兵に導かれ現れた娘に視線が集中する。
好奇の視線に晒されながらも毅然とした態度でやって来る気配を感じ、凌統は思わず後ろを振り返った。
仮面越しではなく、両の瞳でしっかりと彼女の姿を捉える。




「・・・・・・・・・」
「・・・・・・」




 立ち竦む凌統には一瞥もくれず、はただ真っ直ぐ孫権だけを見て歩いていた。
今は、余計な感情を見せるべきではなかった。
ここまで手を打ってくれた周瑜と陸遜には後で何度も礼を言わなければならない。
余計なお節介などとは言えなかった。
彼らには彼らなりの思惑や計算があって生かそうとしたのだろうが、何にせよ、もう一度凌統とまともに顔を合わせる機会が得られたのは嬉しかった。




「話は聞いていたか」
「はい」
「元々扱いには困っていたが、お前を手にかけると更に困ったことになると判明した」
「・・・・・・」
「お前を生かすにあたって、いくつかの命を下すことになる」
「はい」




 下される命はなんとなくわかるような気がした。
母国に与するな、良からぬ事を考えるなと、おそらくはそんなものだろう。
ここまで連れて来られた今、そのような浅はかな所業をするほど愚かではない。
大人しくしていることが凌統のためであり、彼が望むことなのだ。
彼の幸福のためだけに生き続けることを決意した身にこれらの命は、あってないようなものだった。




「我らを害するような行為は当然してはならぬ」
「心得ております」
「それから・・・・・・。凌統と共に在り続けろ」
「お断りいたします」





 公主の発言に耳を澄ませていたために静まり返っていた議場に、誰もが予想し得なかった返答が響き渡った。
命令を下した孫権自身も、本意はともかくここは場の空気を読んで諾と答えるはずだと高を括っていた凌統も、ここまでお膳立てした陸遜や周瑜も、
あまりに滅茶苦茶なの返答に耳を疑った。
顔色ひとつ変えていないのはのみである。
変わった娘だとは思っていたが、ここまで強情だとそれは悪癖としか言えなくなる。
部下の道険しき恋路を応援してやろうと思い寛大な処置を施そうとしたのに、なぜこの娘は人の感情を逆撫でするような言葉を平気で口にする。
叱責しようと口を開きかけた孫権だったが、彼の声はの言葉に遮られた。




「・・・誰かに命を下されずとも、わたくしは己の意思で凌統殿を想うことができます。少なくとも今この時は、あの方以上に恋い慕うことができる殿方はおりません」
・・・・・・」
「わたくしは、ここにおられる皆様も既にご存知のように曹孟徳の娘です。凌統殿の傍にいることは、本当はあなたのためにはならないことかもしれません。
 けれども・・・・・・、それでも、凌統殿がわたくしを必要として下さるのならば、わたくしもあなたの傍にいたい」




 ともすれば怒号も飛びかねなかった異様な熱気に溢れていた室内の雰囲気が、急に穏やかなものとなった。
孫権の思いやり溢れる命令を拒絶した時は驚いて何も言えなかったが、今ならば何だって言える気がする。
凌統は言いたいことを言って落ち着いたのか、再び口を閉ざしたを見つめた。
あぁ、今やっとわかった。
ここへ入って来た時からずっと無表情でいたのは、緊張していたからなのか。
宮殿の奥深くに住まい市場へ降りることにすら大きな制限を受けていた彼女が、大人数の男たちを前にして戸惑わないわけがなかったのだ。
ただ幸か不幸か彼女は肝だけはとても据わっていて、おまけに同年代の娘たちよりも遥かに達観した人生観を持っていたから、
誰も、凌統ですら彼女の心中に気付けなかったのだ。





「凌統、本当に人を違えてはおらぬな?」
「間違いありません。彼女が、俺が大切に想っている人です」
「凌統はこのとおりお前を一途に想っている。この男を悲しませるような事はしないでほしい」
「皆様を裏切るようなことはしないと、固く誓いましょう」





 それは本当に微かで、短い間のことだった。
ありがとうございますと呟いたは、頬を緩めるとふわりと微笑んでいた。







分岐に戻る