月夜に恋して     終







 部屋を丸ごと洗い流したかのような猛烈な清掃を終えたばかりのは、さすがに疲労感を覚え寝台に腰掛けていた。
部屋の整理ならしたことがあるが、本格的な掃除はほとんど初めてと言って等しい。
大掛かりなのは最初だけだと手伝いに来てくれた使用人も言っていたので、これほど骨が折れることはもうないのだろう。
埃臭さはどこへやら、小奇麗になった部屋を見回し、は満足そうに頷いた。




「今日からここが、わたくしの生きる場所・・・」





 新たに与えられた生きる場所がどのようなものなのかは、まだよくわからない。
暖かな歓迎を受けることはないだろうが、生き抜く覚悟はあった。
もう後には退けないところにまで来てしまったのだ。
今更父や兄の元へ帰ることはできないし、そもそも帰るつもりもなかった。
凌統は数多いる女性の中から自分を選んでくれた。
その事実がこれほど嬉しいことだとは思いもしなかった。
選ばれた以上は、彼に相応しい女性になってみせようと思う。
凌統がどのような女性を好みとしているのか、まずはそこから調べなければならなかったが。




「・・・
「・・・え?」
、外、外」





 こんな夜更けに誰だろうか。
格子から外を見やると、ひらひらと手を振っている青年を見つける。
家主の陸遜にしては背が高く見えるが、顔がよく見えない以上油断はできない。
どうしたものかと考え込んでいると、青年は格子の真下へと歩いてきた。




「凌統殿・・・・・・」
「ちょっと話したいんだけど暇?」
「はい。・・・少々お待ち下さいませ、そちらまで参ります」




 許昌より暖かい土地だが、夜は少し肌寒い。
しかしこちらに住み慣れており体も鍛えている凌統には大したことないのだろう、驚くほどに薄着でいる。
は上着を羽織ると凌統の元へと急いだ。
人の家のこんな所にまで簡単に入って来てしまって平気なのかと不安になる。
陸遜には知らせない方が良さそうだ、彼はきっといい顔はすまい。





「本当は部屋にお招きできればいいのですが、まだ片付いていなくて・・・」
「いや、さすがに部屋に入れてもらおうとは思ってなかったし、にこうやって逢えてるだけで充分幸せだよ」
「ありがとうございます」




 2人きりになるのは随分と久しい気がする。
船上では2人きりになったが、あの時は和やかに談笑している場合ではなかった。
倒そうとさえしていたのだ、勝てる見込みなどなかったというのに。
会えば話したいことはたくさんあった。
あれを話したい、これが訊きたいと散々考え続け、それを実行に移すために父に無理を言ってここまで連れて来てもらった。
そして今、確かに目の前に彼がいるのに、何を話せばいいのかわからずに黙り込んでいる。
静かな空間は好きだが、今の沈黙の状況はあまり居心地が良くなかった。






さ、どうして俺にこれ返したわけ? もう要らないから捨ててくれってこと?」




 東屋に並んで腰かけ無言を貫いていたの前に細長い紐が出される。
大いに見覚えがあるそれに一瞬手を伸ばしかけ、すぐに引っ込める。
戸惑った様子を見せるを眺め小さく笑うと、凌統は紐をそっと握り締めた。




「これって俺とを結ぶたった1つの物だったから、返された時は驚いたっての。思い出したくないくらいに嫌われたんじゃないかとか、悪い方にしか考えられなくて」
「違います! ・・・違います」
「じゃあなんで」
「凌統殿と別れてから、ずっと大切にしてきました。ここへ来た時も、それを肌身離さず持っていました。
 ・・・それを返せば凌統殿は傷ついて、わたくしのことを見捨ててくれるかもしれない。その方がいいと思ったのです」
「確かに相当傷ついたけど、俺はを諦めなかったんだから俺の傷つき損だったけどね」
「・・・申し訳ございませんでした」




 心底申し訳なさそうな辛い表情を浮かべ顔を伏せるに、凌統は焦った。
そうだ、今の彼女は昔の彼女と少し違うのだ。
彼女自身の思いはさておき、自分の幸せのためだけに生き続けると誓った身なのだから、感情には機敏になっているはずだった。
困らせないように、迷惑をかけないようにと気ばかり遣い、本当の彼女の心を見失ってしまうかもしれない。
それは凌統が望むではなかった。
言いたいことを言って、笑いたい時は笑って、怒りたい時は怒る。
ありのままのと共に過ごしたかった。




「周瑜様たちと何の約束したか知らないけど、のやり方で生きればいいから。・・・無理して俺の事好きにならなくてもいいから、さ」
「無理などしておりません、好きで・・・・・・・・・、・・・なんでもありません」
「最後まで言ってくれていいのに。俺、に近付くなとか離れろとかばっかり言われてる気がする」








 本当はどうなのだろう。
本心から言っているのだろうか。
凌統はごくごく自然な動作でを抱き寄せた。
どんなに叫んでも願っても届くことがなかった体が腕の中にある。
愛おしくてたまらない、もう二度と手放したくない大切な宝物。
と名を呼ぶと、小さな声で凌統殿と返ってくる。
そうじゃない。
よもや忘れてしまったのかと頭の片隅で不安になりながらも、悪戯の意も込め、羞恥からか小刻みに震えているの耳元で密やかに囁いた。






「・・・こ、公績殿・・・・・・」
「そう。ねぇ、船上で俺に言いかけてたことって何?」
「・・・何のことでございましょう・・・?」
「しらばっくれるんなら、もっと恥ずかしくなることしていい?」




 腕の中に収まっているの体温が急に上がった気がする。
どうにかして距離を取ろうとしているの手を掴むと、思い出したように両手首に紐を巻きつける。
凌統は訝しげな表情を浮かべ固まったに、にやりと笑いかけた。







「もうどこにも行かせるつもりないから、こうやってを繋ぎ止めとこうか」
「何をおっしゃって・・・」
「さて、さんに選択肢をあげようか。このまましらを切って俺に襲われるか、この状態のまんま俺んとこに来るか、とっとと口割るか。どれがいい?」
「・・・わたくしも、公績殿をお慕い申し上げております」
「・・・、それはどういう意味だろう・・・?」
「わたくしも、あなたをお慕いしておりますと言いかけたのです・・・」








 恥ずかしい。
顔を見るよりも恥ずかしい。
あの時の自分はこんな言葉を口にしようとしていたのか。
これほどまでに恥ずかしくなる言葉だとは思わなかった。
凌統も奇妙な表情を浮かべたまま無言でいるし、早くこの場から逃げ出したい。
ああでもその前にまず、この柔らかな拘束を解いてもらわなければ逃げられない。
今ばかりは、我が両手を束ねている赤い紐が恨めしかった。






「・・・
「は、い」




 やけに神妙な声で名を呼ばれ顔を上げたは、ゆっくりと迫ってくる凌統に慌てて制止の声を上げた。
きちんと言ったのに何が不満だったのだろうか。
いけませんと非難を浴びせるが、凌統は意に介することなくの肩へと腕を移動させた。





、愛してる」
「ありがとうございます。・・・あの、公績殿・・・?」
があんなこと言うからいけないんだよ。大丈夫、さすがにそこまで飢えてないから、たぶん」
「外なのです、誰かに見られたら・・・・・・!」
「見せつけときゃいい。ていうかこんな真夜中、月くらいしか俺らの逢瀬見てないって」
「お待ち「もう充分待っての今なんだよ、俺は」





 なおも言い募ろうとした素直になりきれない口が凌統に塞がれる。
呼吸をすることを忘れそうになる。
間近で見る凌統の顔は恐ろしいくらいに美しかった。
何をされているのかはわかっているし、初めてではない。
初めてではないはずなのに、以前にも彼に触れられたことがあるというのに、頭は混乱していて、顔は火が吹き出しそうなまでに熱い。
まるで許昌と今日の月が出ている夜、同じ人物を2度好きになった気分だった。
今だけは、この至福のひとときだけは彼に身を委ねていたい。
ああ、これが幸せというものなのか。
凌統を幸せにするために生きることを選んだはずなのに、いつの間にかこちらも幸福を充分に味わっている。
もう、二度と彼から離れたくない。ずっと愛されていたい。
心の中に幸福が満たされていくのを感じ、もゆっくりと瞳を閉じた。









  ー完ー







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