揺蕩る月は岸に縁る     中







 2人の間に垂らした釣り糸がぴくりと動くたび、がそうと川面を覗き込む。
よほど興味深いのか、大きく身を乗り出す彼女が気が気でなくてはらはらとした思いで見つめる。
うっかり川に落ちてずぶ濡れ、風邪など引こうものならば軍の士気にも係わる。
いわくの『企み』を見届けるため護衛を兼ねて傍にいるのだ、大きな問題は起こしてはならない。
荀彧が窘めるように名を呼ぶと、はすんなりと元の位置へ腰を下ろした。
服を汚したくないなどといった姫君らしいわがままは言わない、そもそも思いもしない性分なのだろう。





「勝手に外を出歩かれて、殿はさぞや心配をされているのでは?」
「無茶はするなと従軍を許していただいた折にきつく言われました。こちらに来てからは軍務にお忙しいからでしょう、あまり」
「張遼殿とは?」
「あの方は此度の戦でわたくしの護衛をして下さることになったのです。張遼殿は軍を率いてこそ映えるお方、わたくしはお断りしたのですが父の命です。
 ですが張遼殿は本当に厳しくて、この間も鍛練場にいるのを見つかってしまい叱られました」
「それは張遼殿でなくとも、私も賛同いたしかねます」





 初めてが護身用に武芸を嗜んでいると夏侯惇から聞かされた時、それはもう彼になぜだときつく詰め寄った覚えがある。
許昌の最奥、宮殿の中で守られ暮らしていくが武器を持つ必要などあるわけがない。
武器を持てば、戦いに出ずとも扱い方を間違えれば怪我をする。
彼女が戦場に出て喜ぶ者など誰もいない。
そう思っていたのにあの日、剣に返り血を滴らせ現れたを止めることができなかったことは人生の中でも痛恨事のひとつとなっている。
あの日がなければはここにも来なかったのではと思わずにはいられない。






「荀彧殿もやはり、わたくしが武器を執り戦うことはお嫌ですか」
「かつて許昌の地で、孫策軍との急事であったとはいえ参陣を止められなかった私に何が言えましょう。あなたを戦場に駆り立てたのは他でもない私です。私は大きな過ちを犯しました」
「わたくしが強情だったのです。あの節は荀彧様に大きな迷惑と心配をかけてしまいました。ですが・・・」
「ですが?」
「荀彧殿と共に留守居をしていたあの日々は、本当に楽しゅうございました」





 嘘ではない、本当だ。
供周りも連れず自由に街を出歩き市中の賑やかさを肌で感じることができたのは生まれて初めてのことで、とても貴重な経験だった。
見ず知らずの旅人と仲良くなり、想い合うようになったのも荀彧のおかげだ。
荀彧はいつもずっと優しい。
なぜこれほど気を許してくれるのだろうと疑問に感じてしまうほど、彼は甘やかしてくれる。
今だってそうだ。
本来ならば叱られて当然の釣りに文句も言わずに付き合ってくれる。
城へ帰れと強制もしない。
だからこそ今の父との仲を思うと辛いのだ。
いつから噛み合わなくなってしまったのだろう、2人は。





「曹孟徳の娘、一国の姫として生まれた以上、わたくしに外を出歩くなどという自由は許されるものではないとわかっていました。それはきっとこの先も変わらない。
 この戦が終われば、わたくしは父の言うことを聞くという約束すら交わしています。だから荀彧殿には本当に感謝しているのです」
「公主は・・・、様は殿の御息女として、公主として生まれ育てられ幸せでしょうか。お辛くはありませんか」
「満ち足りたわたくしの生活を辛い、幸せではないと言えるとお思いですか? ・・・もしもと考えたことはありますが」





 もしも公主でなかったら、今頃はきっと凌統と共にいる。
戦の混乱に乗じ、今よりもずっと早く揚州の地を訪れていた。
それが今に勝る幸せかどうかは無論わからない。
考えたところで現実にはならないのだから、たった一度思うだけでそれきりやめた。
は荀彧を見つめた。
また険しい顔をしている。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうかとこれまでの発言を思い返すが、心当たりが見つからない。
溜まっている政務の量にうんざりしているのだろうか。
魚は荀彧のおかげでいくらか獲れたので、老婆も喜んでくれるはずだ。
は魚籠を手繰り寄せると、荀彧殿と声をかけた。
立ち上がろうとすると、くいと裾をつかまれる。
険しかった顔が、いつの間にか悲しげで寂しげな表情へと変わっている。
これまでいろいろと厄介をかけてきたが、今ほど弱りきった彼は初めて見た。
これは只事ではない、帰城する前に機嫌を直してもらわねば。
は再びしゃがみ込むと、荀彧の顔を覗き込んだ。
ああ、―――殿。
掠れた声で呼ばれた名は、今や父すら紡ぐことがなくなった懐かしい母のものだ。
なぜ、あなたが母の名をそのように呼ぶのだ。
ぴたりと固まってしまったに荀彧は柔らかく笑いかけ、すぐに目を伏せた。





「あなたによく似た、かつて愛した人の話です」





 今ならば話せる気がした。
今を逃せば、もう二度と話せないとわかっているような気さえしていた。
大軍で押し寄せる曹操軍が負けるとは万に一つも思っていないが、この先何があるのかわからないから、何もないうちに思い出を伝えておきたかった。
噛み締めるようにひとつひとつ、ゆっくりと愛した人との思い出を紐解いていく。
黙って話を聴いているは、何を思っているのだろう。
気味が悪いと思って当然だ。
誰だって両親の、両親以外との淡い思い出話など聞きたくないに決まっている。
かつて曹操には余計なことは話すなと言われた。
哀れな思い込みに娘を巻き込むなとも言われた。
わかっている。
何を話したところでにとって何の益にもならないことくらい百も承知だ。
その上でずっと、自己満足だったができうる限りで見守ってきたつもりだ。
許昌で自由にさせたのも何も知らない彼女がただ不憫で、少しでも喜んでほしかったからだ。
今日も、彼女が満足するのならばと『企み』の共犯者になった。
楽しかった。
そう言ってもらえて、どれだけ救われたことだろう。
迷惑だとわかっている。
の顔を見るのが怖い。
主の娘を困らせるなど臣下失格だ。
それでも我慢できなかったのは、かつて手放してしまった時と同じ思いを二度は抱きたくなかったからかもしれない。
知る限りの思い出を語りきった荀彧は、の反応を窺うことができぬまま頭を垂れた。





「驚きました・・・。まさか荀彧殿がそれほどまでに母を見知っていたとは」
「何も思われないのですか」
「いくつか合点がいったことがあるくらいでしょうか・・・。どんなかたちであれ、わたくしが知らない母の話が聞けるのは嬉しゅうございます」
様は、殿の大切な姫君であらせられます。大切なお方に対しても数々の非礼、いかような罰も受けましょう」
「では、まずはこれを依頼主へ渡しに参りましょう」




 お話の間にもたくさん釣れたのですよと笑顔で魚籠を差し出してきたに拍子抜けしながらも、行動自体は至極まっとうなことなので同道する。
行きとまるでの様子が変わっていないように見えるのは、こちらの目が節穴だからだろうか。
それとも、感情の起伏をむやみに表に出さないようにと厳しくしつけられたからだろうか。
違うだろう、今日の彼女はいつになくにこやかだった。
無言で歩き続ける道はやけに長く感じる。
こんなことならば馬を駆ってくるべきだった。
ずっしりと重くなってしまった足取りに気付いたのかただの偶然か、隣を歩いていたは立ち止まると、実はと口を開いた。





「わたくしにも、恋い慕う方がいるのです」
「・・・は?」
「その方とは許昌の地、わたくしが荀彧殿のお許しを得て城下へ降りていた折にお会いしました。今は対岸にいらっしゃるはずです」
様、それは」
「わたくしが、何の考えもなしにこのような無茶を通すとお思いでしたか? ただ一目お見かけできればそれでいいのです。後はもう、何も望みますまい」




 荀彧殿と同じですねと寂しげに笑うに、返す言葉が見つからない。
同じではない、まるきり違う。
結ばれていい恋ではない。
対岸の彼と出会ったところで結末などわかりきっているのに、一目見てどうするというのだ。
愛する男の姿を認め、死をも見届けたいとでも言うのか。
変わり者が過ぎる。
そうまでしても愛したい男と出会うきっかけを作ってしまったというのであれば、これ以上の罪はない。
叶うことのない恋情を抱かせるために外へ出したのではない。
このままでは楽しかった思い出が、思い出したくない辛いものに変わってしまうだけだ。





「愛する人と生きるというのは難しいのですね、荀彧殿」
様、私は・・・」
という名、素敵でしょう? 母がどうしてもと父に願ってつけてくれたのです。あなたはわたくしを公主ではなくと呼んで下さいます。わたくしはそれがとても嬉しい。
 わたくしは曹ですから」





 事前に教えられていたらしい路地裏の小屋へ魚を届け終わり、今日の企みを無事終えたと共に館まで向かう。
ずっと探していたのか、全力で走ってくる張遼の姿を見たが困惑した表情を浮かべこちらを見上げる。
なるほど確かに彼女の護衛は骨が折れよう。
猛将張遼とはいえ、下心がなければこうは保つまい。
話を聞いてしまった今となっては張遼が気の毒にも思えてくるが、それは言うべきことではない。





「荀彧殿、今日はありがとうございました。また楽しい思い出が増えました」
「張遼殿を困らせるのも程々になさいますように」
「それはどうでしょう・・・。・・・あの、言い出したら聞かないわたくしとそっくりの父のこと、この先も見捨てずにどうかよろしくお願いいたします。
 わたくしは荀彧殿に教えていただきたいことがまだたくさんございますゆえ」
様を悲しませるようなことはしないと約束いたしましょう。ですから様も、御身を大切に」
「はい、必ずや」





 今日は釣りを教えてもらったが、次は何を教えてもらおうか。
そうだ、花のことを聞けば良かった。
では次回は花について尋ねてみよう、許昌に戻ってからもいくらか時間はあるはずだ。
は歩み寄ってきた張遼の視界から、ぱっと釣竿を背に隠した。







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