軍師の温泉巡行記




 関羽様のとこに戻るはずだったんだけど、どうしてこうなっちゃったのかな。
罠にかかった兎の気持ちが今ならよくわかる。
軽く酒でもと誘われた瞬間から、既に軍師の術中だったのだ。
は当てもなさげに街道を歩く悪人顔の横顔を見上げた。
以前よりも疲れの色が濃くなっている気がする。



「俺の顔に何か?」
「あ、いや・・・なんでかなって」
「不服でしたか? 抜擢の理由を一から述べなければわからないとでも言うつもりですか」
「知りたいような知りたくないような・・・」
「この悪人に気に入られたのです。この国であなたを害そうとする命知らずはいなくなりました」
「はあ、それはどうも」



 命が狙われなくなった代わりに、この男から違うものを狙われるようになった気がする。
それを確認しようとはとても恐ろしくてできない。
そもそも友でもなく側近でもなくましてや侍童でもない、別の将軍の厩舎に勤める馬番ごときをなぜ静養のための湯巡りに同道させているのだろう。
本心が何も見えなくて恐ろしい。



「あ」
「どうしました、
「あそこに虎がいます、狼もいる」
「こんな場所に? 先程は南中からの間者が潜んでいたが、またその手合いか?」
「どうでしょう、この辺は元々獣も多く棲んでるそうですし、ねね法正殿、ちょっと遊んできてもいいですか!」
「あなたという人は、本当に・・・。俺も行きましょう」
「えー法正殿来たらあいつらが怖がっちゃうじゃないですかあ」



 法正が動き出すより早く、草原に屯する虎たちへと走り出す。
目が合う。
かわいい子たちだ、牙も向いて殺気もギラギラとさせてこちらへ向かって跳躍する。
まるで噛み殺さんとするばかりの勢いだ。



「へ?」
! どけ!」
「お、おおおおお・・・。ほ、ほほほ法正殿!」
「黙って下がっていなさい、まったく手のかかる!」
「この虎たち飼い慣らされてます! うっわーそんなことできる奴がいるんだ! 他にもいるんだ! これが南中! すげぇ!」
「感心している暇があるのなら猛獣使いを探して下さい」
「えーそんなのわかんないですよー」



 できないことをできないと素直に告白しただけなのに、冷ややかな目で睨みつけられる。
疲れ顔を更に窶れさせた鬼気迫る表情の軍師に首根っこを掴まれ、ずんずんと茂みへと入っていく。
虎より怖い、張飛殿より怖い、殺される。
一足先に茂みの中に潜んでいた南中からの先客を蹴散らすと、虎たちが一斉に退いていく。
こちらに頼むでもなく、初めから猛獣使いの居場所には心当たりがあったらしい。
獣との乱戦の中でよくそれだけ頭が回ったものだ、軍師の頭のつくりはきっと我々一般庶民と違うのだろう。



「間者が出て獣も出て、温泉遠いですね。法正殿全然癒されてないし、諸葛亮殿ほんとに休んでほしかったのかな。わざと峨眉山に寄越したんじゃないのかな」
は考えの筋はいいのですが、何が足りないのでしょうね。それよりも、湯に浸かりたくなりましたか?」
「え? そりゃもう当然ですよ。走り回って冷や汗もかきました。法正殿も本気で休んだ方がいいと思います。ていうかオレがこっちに残った条件は法正殿の回復ですから、早く元気になってもらわないと関羽様のとこに戻れない」
「見かけによらず一途ですね、は」
「まーこう見えて関羽様の部下ですから! ささ法正殿、背中くらいなら流してあげますから早く元気になっちゃいましょう!」




 オレの背中流しは絶品って評判なんですよ、赤兎から!
赤兎馬とはいえ馬と同等の扱いをされることが確定した法正は、えへへと屈託なく笑う青年の馬より澄んだ瞳に己が悪人面を映した。




どうしました、俺の背中を流すのでしょう?



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