策士と策士は化かし合う




 固く閉ざされた扉が、がたがたと激しく音を立てる。
おっかなびっくり壁に耳を寄せると、怒声と悲鳴と金属同士がぶつかる音が絶え間なく耳に飛び込んでくる。
ここは許昌だ。曹操が治める中心地で、住まう人々のほとんどが曹操に忠誠を誓っていたはずだ。
そうだというのに、今日の騒ぎはいったい何だろうか。
これではまるで戦争だ。
夫と死に別れた下ヒの地での戦闘以来、戦場に身を置いたことはない。
あの時は、みるみるうちに迫る濁流から逃れるために上へ上へと駆け上がり、そうして逃げ場がなくなったところを郭嘉に保護された。
軍師だった夫の命を賭けた策が暴かれた後も、郭嘉は邸をよく訪ねてきた。
本来であれば身元を引き受けるはずの親族とも断絶したを守る者は、誰もいない。



「無理を強いはしないけれど、否と言える状況にないことはわかるね」



 そう嫣然と微笑まれながら囁かれ、そして拒むことができなかったのは亡き夫に対して大きな裏切りだった。
そうなる時もきっとあるでしょうと言い遺した夫の言うとおりになってしまった現実を迎え、夫の慧眼を讃えると同時に己が無力さを痛感した。
このままではいけない、広い世界へ逃げなければ。
そう心に決めた晩、郭嘉は必ず現れるのだ。
夢は夜毎、現実という名の悪夢に塗り潰されていた。



「でも、この騒ぎなら」



 そろりと邸を抜け出し裏手に回ると、兵の一団と目が合う。
各々が手にした得物がぎらりと鈍く光り、遠い日の惨劇を思い出す。
あの人はあの輝きで逝ってしまった。
恐怖と動揺で足が竦み、にじり寄る兵たちに背を向けることもできない。
殺されてしまう。逃げることも叶わず、自らの意思で何かを為そうとすることもできず弑されてしまう。
兵たちの役目は敵を排除することだ、彼らに非はない。
曹操の寵臣の情けを受け生き永らえている女など、内乱の首謀者たちにとっては排除すべき敵でしかない。
だから倒されるのだ、道理にかなっている。
はぎゅうと目を閉じた。
あの人も最期はああだったのだろうか、いや、きっと違うだろう。
あの人の最期を見ていられなくて、別れの間際も目を閉じてしまった。
愛する夫を見送ることもできなかった愚かで弱い妻だった。



「敵は、敵はあちらですぞ! 狙うは曹操、曹操ただひとりです!」
「あ・・・、え・・・・・?」
「おや・・・、おやおや、これはこれは殿ではありませんか。このようなところで奇遇ですな」
「こ、公台様・・・!? なぜ、なぜ・・・? 下ヒで身罷られたのでは・・・!?」
「故あって劉備殿の軍師、軍師として策を献じているのです。殿は今はあの方の妻にでも?」
「ち、違います! ・・・違うのです、私はずっと、今でもずっと・・・・・・許して・・・」



 死んだと言っていた。
もういないと何度も言い聞かされた。
死んだに決まっていると思っていた。
だが、今目の前で不敵な面構えをしているのは死んだはずの夫、陳公台だ。
彼が生きていて、だとしたら別れてからのこの身はいったい何を。
取り返しのつかないことをしてしまったと気付き、よろりと体が傾ぐ。
がしりとつかみ上げてくれた腕の温もりを一度たりとも忘れたことはない。
戦に出る以上は多少の実力行使も必要と、呂布に隠れ密かに鍛錬に励んでいた体が見てくれよりも力強かったことも覚えている。
何も変わっていない。
変わってしまったのはこちらの方だ。



「公台様、わ、私は・・・」
「しばし、しばしの間待てますな? そう時間はかかりません、許昌を押さえた暁には必ずや殿をお迎えに上がります」
「でも、私はもう・・・」
殿は私の妻ですぞ。殿がこの手を二度振り解くのであれば、私は三度捕らえます。理想の先は目の前なのです」



 まだ世の中のことをろくに何も知らない小娘だった頃に、陳宮に縋り願った言葉がある。
この人は紛れもなく愛した人で、今日は夢から目覚めた日だ。
は再び戦場へ戻った陳宮の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。




「ほう、あなたが陳宮の奥方か!話はよく聞いていた!」「え?」「劉備殿、それは、それは内密にと!」



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