四阿の朗君を待つ




 ああ腹立たしい、今なら館ひとつ燃やせてしまいそう。
相手を見誤るほどに酔っているのなら、いっそ潰れてしまえばいいのに。
それとも、ぎこちない愛想笑いを浮かべ潰してしまうまで酒杯を満たし続けるのがあの場での正解だったのだろうか。
いいや無理だ。
何事もなかったように装えるほど世間に馴染んでいないし、長江に垂れ流してしまえるほどおおらかな心も持ち合わせていない。
はべったりと触れられた腰のあたりの衣をしきりに叩きながら、酒宴会場から離れた四阿で憤っていた。
孫権は酒宴が好きだ。
孫権自身がおそらくは国でもっとも酒を愛しているから、酒を愛でることができる機会が多く設けられる。
規模は広がるばかりで、ついには書庫番という閑職に従事しているこの身にも出勤要請がやってきた。
要請とは、つまりは命令だ。



「歌妓と下女の区別もつかないほどだなんて、みっともない! 義封殿も気付いてくれないし、ああもう酒臭い!」



 高官たちの前に出るからそれなりの装いでなければならないと、手持ちの中でも上等なものを着てきた。
一度の水洗いで臭いはすべて落ちるだろうか。
食べ物を零されなかったのでまだ良かったと妥協はしたくない。
酔っ払いは苦手だ。
べたべたとして、初めて会った親しくもない女の子の腰に手を回し下卑た笑みを浮かべ、好感を持てる店がひとつもない。
最悪だ。は今晩でもう何度目かもわからない同じ感想を呟くと、厨から迷惑料のつもりでくすねてきた菓子を口に放り込んだ。
さすがは孫権主催の酒宴だ、出されていたであろう菓子も口当たりが上品だ。



「おや、先客でしたか」
「はい? ああ、酔い覚ましでしたらどうぞ、私は失礼します」
「待って下さい。今から宴に戻るのはあまりおすすめできません。あなたは官吏でしょう。であれば尚更、戻らない方がいい」
「あら、どなたか存じ上げないけれど剛毅な方。そんなに大口を叩いて大丈夫かしら、お歴々に目をつけられてしまうかも・・・」
「酔っ払いの戯言ですよ、ははは」



 本当に酒宴の席にいたのかと疑ってしまうくらいに酒の匂いを纏っていない男だ。
酒宴に参加していたにしては小柄に見えるが、どこぞの子息だろうか。
出仕前に孫権に面通しをするというのは、かつて仕えていた主から教えてもらった。
しかし、もしそうだとしたらこの青年は少し口が過ぎると思う。
酔いどれの放言とは思えないはっきりとした物言いは、他者に聞かれると決して良くは見られない。
若輩者が過ぎた真似をとは、毅然とした老将軍の口癖だったはずだ。



「いつもどんなお仕事を?」
「内職・・・いいえ、国の歴史や古文書を預かるお役目をいただいています」
「興味深いです。孫権殿の一族はかの孫子の末裔と伺いましたが、やはり彼らの書なども所蔵されているのでしょうか」
「さあ・・・、数が多いのですぐには」



 見たこともない。探したこともない。
そのような任務を仰せつかったことはかつて一度もない。
適度な掃除と見回りとしか聞かなかったから、言われたことしかやっていない。
青年は書物に興味があるのだろうか。
確かに体格はお世辞にも良くないので武官には向いていないと思うが、いずれは書庫にも物見遊山に来たりするのだろうか。
困る。来ないでほしい。平穏を邪魔しないでほしい。



「私は軍師としてお仕えしているのです」
「軍師」
「とはいえ、今はまだ見習いのようなものなので呂蒙殿の元で修練に励んでいるのですが。いずれはあなたの仕事場にもお伺いしたいものです」



 それからひとしきり、こちらが一向に理解できないおそらくは軍師としての知識を語る青年の言葉に耳を傾ける。
まったくわからないが、楽しそうだ。
いい酔い方をする奴もいるようだ。
話し尽くして疲れたのか、うつらうつらと頭が揺れ始めた青年の肩にこれまた酒宴から拝借してきた布をかけてやる。
結局名前を聞き損ねたが、悪い奴ではなかった。
少なくとも、突然何の断りもなしに手を出そうとしてくる不埒者ではないと思う。
は眠り込んでしまった青年に別れを告げると、賑々しく決闘が始まった宮城から撤退した。




「思えばあれは恋だったのかもしれないわ・・・。ねえ義封殿、心当たりない?」(陸遜、とは言わない方がいいんだろうな・・・)



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