歌声に喚起せよ!




年始くらいはと求められるがままに参加してきたが、回数も濃度も非常に多く濃いものだった。
当分の間は白湯だけ飲んだ生活がしたい。
陸遜は常よりも幾分が膨れたかもしれない腹を抱えると、静まり返った夜中の自邸へ滑り込むように帰宅した。
ようやく落ち着かれましたか。
音もなくぬぅと柱から姿を表した寝衣姿の妻の仏頂面に出くわし、思わずため息が漏れる。
とっくに寝ていると思っていた。
彼女はそういう性分の人だと知っているから、起きていてほしいとは端から思っていない。
彼女の心身の安寧は、ひょっとするとこの国の行く末よりも重要事項だ。



「まさか起きていたとは・・・。殿もかわいいところがあるんですね」
「夜半に聞き過ごせない物音がしたので目覚めただけです」
「なるほど・・・。物音の主が夫だったから良かったものを、不逞の輩なら襲われていましたよ」



 ふんとそっぽを向いたの後を追うように食卓へ向かう。
これでも飲めばとぞんざいな手つきで突き出されたのは、程良くぬるい白湯だ。
顔と手は不機嫌さ丸出しなのに、やってくれるのは嬉しいことばかりだ。
言えばが口を利いてくれなくなるので声には出さないが、起きていたのは夫の帰還が遅くて心配だったため。
出迎えたのは、おそらくは宴でしこたま飲まされへべれけになっているであろう夫を支えるため。
白湯を突き出したのは、酔いを覚まさせるため。
何から何まですべて夫を案じての行動だ。
は隠し通せていると思っているのだろうが、夫を思う妻の熱い想いは完全に読み取れている。
軍師を夫にしたのが運の尽きだ。
かわいい。
陸遜は白湯を一息に飲み干し呟くと、ふふふとひとり笑った。



殿は本当にかわいい方ですね。そんなにわかりやすくて大丈夫かと不安になります」
「は?」
「すべては私を思っての愛ある行動・・・。ふふふ、隠さずともわかっているのですから意地を張らずに柔らかい表情になって構いませんよ」
「は?」
「ええ? ですから」
「伯言殿、気付いておられないようですから教えて差し上げますが。あなた、邸に入るまでずーっと大声で唄ってましたよ。しかもド下手くそ」
「恥ずかしながら私は詩歌は得意ではなく、良い師もいないのですよね」
「ええ、ええ、それはもうとっても恥ずかしいくらいにド下手くそ。どこで聞き齧った歌だか知りませんけど、私の夫を名乗るのであれば酒なんぞには負けないでいただきたいのですが」
「・・・すみません殿、白湯をもう一杯いただけませんか? 水でも結構です」
「頭からかけてあげましょうか?」
「いえ、それは自分で・・・。・・・本当に? 自慢ではありませんが、私は素面の時でも謡曲はあまり得手ではなくて」
「ええ、そうでしょうね。聞くに堪えられず目が覚めましたもの。物音、で誤魔化してあげた妻の優しさが身に沁みましたでしょう?」



酒でも飲まないと寝直せないくらいの耳鳴りです。
厨房からどんと酒壺を持ってきたの怒りと酒の臭いに、陸遜は無言で撤退した。




本当のところは誰にもわからない



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