運命否定生命体




 助けて助けて馬岱様、いったいどこにいらっしゃるの。
今や顔も忘れた、いや忘れようとして無理やり記憶から消し去った誰かがずっと呼びかけるさまは、夢となって思い出す。
助けを求める声は確かに聞こえていたし、助けることができるのならば迷わず身を投げ出していた。
助けられなかったから、助けに行かなかった。
手を差し伸べたところで無事逃げおおせていたかどうかもわからない危険な賭けに身を任せるよりは、眼前の現実を見捨て再起を誓っての撤退を選んだ。
選択は間違ってはいなかった。
一族だけの力で悲願を果たすことはできずとも、新たに得た仲間と主が治める国で戦いを続けている。
あの時、手を伸ばさなかったからこそ与えられた環境だ。



「・・・と割り切っている割にはお顔の色は優れないんですね」
「ええ~そんなことないよ~。灯りのせいだよ?」
「そうですか」



 痛い、痛いわ。
お願い助けて、そこにいるんでしょう。
ねえ、お願いだから助けて
忘れようにも忘れることができない呼び声は、今でも夜更けに聞こえてくる。
嫌になるほど明るい日差しの中で聞いたはずのそれは、今は夜しか聞こえない。
助けられないとわかっていても飛び出そうとした体は、強くて太い腕に阻まれ動けなかった。
助けたかったのだ。
何にも代えられない大切な人だから、たとえこの身が八つ裂きにされようと助けに行きたかったのだ。
手を差し伸べたところで助けることはできない、君という犠牲が増えるだけだよ。
そう、まるで他人事のように淡々と説いて諭した男の瞳よりも冷めたものを、は未だかつて見たことがなかった。
冷たい顔をしていたのはあの時だけだ。
今は、黒くて深いものを上手に隠しきった緩い顔でいる。
この自分に対してもだ。
不気味だった。



「馬岱様は妻を迎えるつもりはないのですか?」
「心配してくれてるのかい? でもひとりも気楽だよー、がいるし」
「では馬岱様は、私が助けて馬岱様と呼べば助けに来ていただけますか?」
「そんな目に遭わせるつもりはないけど、急にどうしたんだい
「痛い痛いと、斬られて血まみれになった顔を必死に上げて絶叫したら助けてくれますか?」
「どんな顔だったか忘れちゃったなあ」
「私と同じ顔をしていたのに?」



 遠い昔、まだ物事の道理を片方からしか見ることができなかった小娘の時分に姉は死んだ。
最後まで愛する夫の名を叫びながら、絶叫を残し殺された。
首を刎ねられても悲鳴はしばらく残るのだなと、知りたくもない知識を得たのもその日だ。
彼女の呼びかけに言葉を返す者はなかった。
誰も助けに向かわなかった。
行ったところで助けられない彼女を救うために、どうして君が犠牲にならなければならない?
曹操軍よりも、羽交い絞めにして行動を奪う姉の夫の方が恐ろしく感じた。
この男は、有事となれば最愛の妻でさえ見殺しにする。
姉はこんな男の元に嫁いでしまった。
姉が不憫で哀れで、それでもこの男の庇護がないと生きるどころか逃げることすらできない我が身の無力さがただただ空しかった。
庇護は今も続いている。
守っていると思われている。
妻を亡くした男やもめと、唯一の肉親を亡くし天涯孤独となった娘という歪な関係が、周囲からは概ね好意的に受け入れられている。
真意は違うのに。
姉のように見捨てられる女が新たに現れないようにと、見張っているだけなのに。



「やっぱり君、俺のことが憎くてずっと一緒にいてくれてた?」
「そうだと思うのなら、どうして捨てようとしないのですか」
「捨てるものはもう捨ててきたからね、今の俺が失っていいものは何もないよ。だからが叫べば、俺はちゃーんと助けに行くよ。まあ、呼ばなくても探しに行くんだけど」



 ねえ、見張っていたのはどっちなんだろうね。
俺はとっくにあの時選んでたんだけどな。
にこやかな表情ひとつ変えない馬岱の問いかけに、は過ぎ去った悲劇の謀られた真実を垣間見た。




そういえば迷子になったことない



分岐に戻る