別れと別れは突然に     3




 いない、どこにもいない。
ありとあらゆる帷幕を開いても、目的の人物へは辿りつけなかった。
突然の急襲に逃げ惑う女たちの顔を覗き込んでも、見慣れた顔にはついぞ出会えなかった。
間に合わなかったのだろうか。
馬岱が言う通りは実は本当にかわいくて、焦れた相手がだけ洛陽に連れ去ったのだろうか。
がかわいいと思ったことはかつて一度もないが、のことを何も知らないおめでたい人々の曇った瞳で見れば、彼女もそれなりに見えてしまうのかもしれない。
ありえない。
そう言い切ろうとして、姜維は唇を噛んだ。
これだけ探しても見つからないのだ、常識では考えられない事態がの身に起こっていてもおかしくはない。



「ああ、・・・」


 が捕縛されてからの月英は、憔悴しきっていて見ていられない。
それもこれもすべてのせいだ。
いつも周囲を振り回し心をかき乱し、傍にいなくても彼女がこちらに与える影響は甚大だ。
いてもいなくても変わらない、だったら傍にいた方がどれだけ安心か。
もう一度敵陣に、今度はひとりで乗り込もう。
これ以上のために軍を動かすことはできない。
兵も馬も皆疲労困憊で、この状態で追撃を受ければここまで耐えてきた意味もなくなってしまう。
姜維は槍を手に取ると、そっと幕舎を離れた。
静まり返った森を歩いていると、がさごそと派手に茂みが揺れる。
奇襲にしてはあまりにも稚拙、獣にしては物音が大きい。
槍を構え、茂みをそっと突く。
うわ何か当たった、いったーい!
悲鳴を上げあっさりと転がり出てきた人物を冷ややかな目で見下ろす。
見下ろし、立っていられないほどに震え、膝をついた。



「あいたたたたた、うっわ今度は何?」
、殿・・・?」
「あ、その声もしかして姜維殿? 良かった~合ってたー!」
「なぜここに。そ、その姿は」
「あーやっぱり気になっちゃう? すごいと思わない? 魏軍ってたかが捕虜ひとりにこんな上質のヒラヒラ着せるの。ていうか曹爽がさあ」
殿」
「もう最悪、終わったと思ったんだけど姜維殿に会えて良かった。お小言大臣の姜維殿見て安心できるなんて私も相当弱ってるみたい。ねえ姜維殿、悪いんだけど何か着るもの持って「殿!」ぎゃあー!」



 がこんなに小さくて細かったとは思いもしなかった。
いつも先輩風を吹かせて尊大な態度を取っているおかげで、見た目よりも大きく見えていただけだった。
薄手の衣のおかげでそのものの姿がよく見えるが、目立った怪我はなさそうだ。
殴られた跡もないし、節々を触れても痛いと非難の声は上がらない。
震えているのはやはり寒いからだろう。
覆うものを渡してやりたいが、単身敵陣に乗り込む支度しかしていなかった身軽な自分に渡せるものは何もない。
姜維は寒さに震えるの体を外気から守るべく、ぎゅうと腕の中に閉じ込めた。



殿」
「わ、わ、わ・・・」
殿?」
「た、助けて月英様! 姜維殿が、姜維殿がご乱心んんん!!」



 混乱しているのはの方だろうに、そうやってまたすぐに責任転嫁をする。
やはりはちっともかわいくない。
馬岱には今度言い含めておかなければならない。
彼の甘い評価が万が一にでもの耳に入ってみろ、のことだからすぐに調子に乗る。
ようやく熱くなってきたの体に安堵の息を吐いた姜維は、突如背後から振るわれた戟の猛攻に呻き声を上げた。




























 大層なご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
あの後姜維殿以上に取り乱した月英様に戟の柄でぶん殴られすっかりご機嫌斜めになった姜維殿にお説教された末に授けられた、とっておきの謝罪の言葉だ。
蜀軍の皆さんにご迷惑をおかけしたことは間違いない、だから心の底から謝った。
優しい皆さんは無事で良かったと涙ながらに喜んでくれたし、星彩殿なんて新しい服をくれた。
銀屏殿ももっと体力つけましょうと更に積極的に鍛錬に誘ってくれるようになった。
おかげで毎日筋肉痛だ。
月英様にもものすごく心配をさせてしまって、あんなに泣かせてしまうなんて親不孝な娘だなとつくづく反省した。
月英様を泣かせてしまったのが一番心にきた。
これからはどんなに姜維殿に無茶を言われても従軍は辞退させてもらおう。
私は向かいに座り無言で夕食を食べている姜維殿の澄ました顔を見つめた。
私はいつまで姜維殿の邸にいればいいのだろうか。
魏軍の本陣からひょっこり自力で帰ってきた私、そんなに信用されてない?



「あのぅ」
「何ですか殿」
「美味しい?」
「・・・言いたいことはそれですか」
「作った側からすれば気になる感想じゃない? ムッツリした顔で食べてさあ、私が曹魏の間者にされてるんだったらもっと早く姜維殿殺して首をお土産に洛陽に帰ってるって」
「食事が不味くなるようなことを言わないで下さい」
「でも姜維殿私のこと信用してないんでしょ? だからずっと邸に置いてさ、あぁん私と姜維殿の絆ってそんなものだったんだ~悲しい~」



 わざとらしく身をくねらせてみると、姜維殿ががたんと荒々しく席を立つ。
私が帰って来てから姜維殿だけはずっと苛々悶々している。
元々私のこと好きじゃないみたいだから今回の捕縛騒動があって更に嫌いが増したのかもしれないけど、ここまであからさまに警戒されるとさすがに傷つく。
これでも一応先輩なんだけど、姜維殿はいつになったら後輩らしい可愛らしさと先輩を敬う謙虚な心を手に入れてくれるのだろう。
一生かけても難しそうだ。本当に欲しいものは手に入らないのでしょうねと生前の諸葛亮様もしみじみと言っていた。
諸葛亮様でも、書物の山に宝物でも埋もれさせてそれっきりとかあったのかもしれない。




殿は本当に気付いていないのですか」
「姜維殿の殺意とか? えっ、殺意あるの?」
「そんなものはない! 殿は、本当に自分が信頼されていないと思っているのですか」
「じゃあ姜維殿はどうして私を帰してくれないの?」
「・・・から・・・」
「へ?」
殿はかわいいと、とある方から聞きました。そんなはずはないのに、帰ってきた殿は曹爽に弄ばれたと言いました」
「言ってない・・・じゃなくてえっ、姜維殿目を覚まして、私はかわいいから」
殿は落ち着きがないので、目を離すとまたすぐにでも捕らえられてしまうかもしれない。だったら初めからここに留め置こうと」
「私がかわいくないって嘘でしょ、姜維殿普段から目を離しすぎでしょ。姜維殿、私をよく見て!」



 尊敬されるどころか、ここまで卑下されているとは思わなかった。
下手なことを聞いてしまった、傷が深くなった。
私は見えているようで何も見えていなかった姜維殿の節穴の目がついた顔を両手でつかむと、ぐいと私に近付けた。
ほらほらよく見て、私かわいいでしょう!
かつてない必死さで姜維殿に訴えると、姜維殿が「カワイイ・・・?」とキラキラ輝く無垢な瞳で私の顔を見下ろす。
駄目だこの人、蜀に来た時から諸葛亮様しか見えてなくて、諸葛亮様の隣にずっといた私のことなんてその辺に咲く一輪の花とすら見えていなかったんだ!
そりゃ周囲の主に文官たちと北伐で揉めるに決まっている、姜維殿は自分が見たいものしか見ていないんだもの!



「わかった姜維殿、私はかわいいの」
「し、しかしそれならやはり曹爽に・・・」
「何かされてたらここにいないでしょう! ここに来れてるわけがないでしょ、だって私なんだもの!」
殿だから・・・?」
「まあそれは仮定の話として、とにかく姜維殿が心配してるようなことは何もなかったから、それが理由なら私がここに居る理由はもうないよね」
「確かに・・・」
「あと私はかわいい。本当にかわいい。わかった?」
「わからな「諸葛亮様の口癖は『かわいいかわいい私の』だったんだけど」理解した」




 面と向かって言われたことはないけど、きっとどこかで一度くらいは酔った勢いで言っていただろう。
言っていてほしい、でないと私が嘘教えたことになっちゃうから。
不味い食べ物を無理やり飲み込んだような壮絶な顔で頷いた姜維殿から両手を離すと、私は再び席に着いた。
疑いも晴れたので、これで明日からは月英様と一緒にまた暮らせるはずだ。
家族だもん、離れ離れはずっと辛いし寂しい。
私の父親だったらしい司馬懿殿は、私のことをかわいいと思ったり離れがたいと思ったことは果たしてあったのだろうか。
どっちでもいいか、そんなもの。
ぼんやりと頭に浮かんできた親切な変なおじさんを振り払って食べた食事は、本当に塩加減を間違えたようでしょっぱかった。




『私の、この司馬仲達の娘だぞ! どこへやった、どこへ隠した!』『俺と彼女の・・・、信頼できる友の元へ』



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