お兄ちゃんは名乗れない




 兄は一人しかいなかったが、弟妹はたくさんいる。
あれでなかなかに旺盛だった父は、母以外の女たちとも交流を重ねていたらしい。
だがまさか、会ったこともない知られざる妹が敵国に住んでいるとは思いもしなかった。
父上は、再会しなければ墓場に持っていくつもりだったようだがな。
そう悲しげに話していた今は亡き兄もまた、こちらが出会わなければ独り胸に仕舞ったまま逝くつもりだったのだろう。
知ってしまった以上、義務がある。
放っておけるはずがない。
彼女は、は妹なのだから。
司馬昭は、が留め置かれている小部屋の戸を叩いた。
こんにちは、お兄さん。
わずかに開いた戸の隙間からおずおずと声をかけられ、よと答える。
『お兄さん』。
間違ってはいないが、彼女はその言葉の意味をまだ知らない。



「入っていいか?」
「うーん、どうなんだろ。私、買充とかいう人から監視されてるんだよね」
「許可は取ってきた。何もしない。ほら、腹減ってるだろ?飯持ってきたから一緒に食おうぜ」
「じゃあ食べる」



 相変わらず隙ばかりだ。
周囲に屈強な護衛でもいたのか、は恐ろしいほどに警戒心がない。
異邦の地でよほど大切に育てられたらしい。
いや、幼い頃に魏を離れた彼女にとっては蜀こそが故郷なのだろう。
司馬昭は、妻お手製の肉まんをちまちまと食べ進めているを見つめた。
きっと肉まんが好きだからと、珍しく根拠のない自信を見せながら厨房で腕を振るっていた元姫の顔を思い出す。
彼女も彼女なりに、まだ見ぬ義妹を案じているのだろう。
不安にさせては駄目と何度念を押されたことか。



「美味いか?」
「うん、味付けあんまり慣れないけどたぶん美味しい」
「ま、そうだろうな! なあ、お前これからどうすんの?」
「さあ。買充とかいう人は私を洛陽に連れてくって言ってたけど」
「行きたくないのか?」
「私にどうこうできる問題じゃないしねー。魏軍に知り合いいないし、連れてかれてどうすんのって話」
「兄弟いるだろ、頼ってやれよ」
「あー、お兄さんもしかして私が誰か知ってた?」



 めんどくさいなーと自分の口癖と全く同じぼやき声を上げたが、肉まんを皿に戻して立ち上がる。
小さな窓から成都の街並みを見下ろしている背中は、とても小さい。
ここにはもういられないんだよねと呟いているが、彼女の願いを叶えてやることはできない。
がこのまま、本来の素性を明かさないまま蜀の地で過ごすことはおそらくできない。
彼女が蜀を終わらせた司馬一族の血を引く者だと知れば、今まで親切にしてくれていただろう人々もどんな行動に出るかわからない。
を守るためにも、今は洛陽へ連れて行った方がいい。
司馬昭はの隣に立とうと腰を浮かせかけ、すぐさま体勢を元に戻した。
がぐるりと首だけ真後ろの卓へ回している。
ああ、彼女は間違いなく父の娘だ。
よりによってこんな体質が似てしまったのか、苦労したろう。
司馬昭は座り直したに、知ってると返した。



「会ったこともないどころか敵だった妹を、笑顔で迎えてくれる兄弟なんていると思う?」
「いるんじゃねぇの。このご時世、一族が他国に散らばるのはおかしな話じゃない。諸葛亮だって兄は呉にいて、諸葛誕はああなった」
「例えばお兄さんはさ、ある日突然目の前にあなたの妹なの、これから甘やかしてね!って言ってくる子がいたらどう思う? きつくない?」
「俺を見くびるなよ? 俺は兄妹に易しいと評判の兄貴なんだよ、妹のひとりや2人増えたって喜んで抱きしめてやる」
「ふふ、何それ」
「だから、お前も軽い気持ちで帰って来いよ、洛陽に。お前の魏での家族もきっと待ってるから」



 あちこちに家族いて実は羨ましい奴だよな、お前。
思わずぐしゃりと撫でてしまった頭に触れたが、小さく笑った。




「それで? いつ自分が兄って言うの?」「だよなあー・・・」



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