狼は振り返れない




 身代わりか、あるいは単なる忘れ物として残されていった愛用の兜をゆっくりと指でなぞる。
今頃彼は成都へ辿り着いているだろうか。
夏侯覇の選択には驚きこそしたが、止めることはできなかった。
止める権利はなかった。
本当は止めてほしかったのだと思う。
傍にいて守ってほしいと言えば、彼は命に代えてもその願いを叶えようとしただろう。
夏侯一族はもう充分に宗家への忠を尽くした。
これ以上、主のために命を散らす必要はない。
夏侯淵のように戦場で散るならまだしも、泥沼の内紛で絶えていい血ではない。
は望まぬ来訪者に目もくれず、兜の緒を弄った。
冷ややかな視線が指に突き刺さるが、さしもの司馬懿も目から光線を発することはできないようなので臆することは何もない。



「それは?」
「夏侯覇殿の忘れ物でございましょう」
「見え透いたことをする」
「本当はご本人に届けて差し上げたいのですが、それはお嫌でございましょう?」
「さすがのご賢察、感服いたしました」



 相変わらずの嫌味な男だ、もっと素直に言えないのだろうか。
嫌なら嫌だとはっきり言ってくれる夫に長く添っていたので、婉曲にしか感情を伝えようとしない彼を見ていると疲れてしまう。
は小さくため息を零すと、司馬懿へと向き直った。
兜は葛籠の奥深くに仕舞っておこう。
表に出していると、これは遠からず消される。



「妙才おじさま・・・、夏侯淵殿と面識はございましたか?」
「漢中で少々。非常に優れた将軍でした。武勇のみでなく兵の統率にも優れ、学ばせていただきたいところも数多くある・・・と思っていた矢先の悲報でした」
「とてもお優しい方でした。夏侯覇殿とも幼少の頃より共に遊び、思い返せばわたしくは、あの父子を慌て困らせるようなお転婆ばかりしていたような気すらいたします」
「容易に想像できますな」
「ですから、あなたが今胸に抱いておられるような疑念は、わたくしたちの間にはまったくございません」
「恐れながら、それは殿のみのご見解かと。・・・私はまったくもってつまらぬ、主なき兜ごときに情を移すなど馬鹿馬鹿しい」



 素直になったらこれだ。
よくわからないものにまで勝手に嫉妬して、独占欲を剥き出しにする。
単に昔話を聞きたかっただけなのだが、彼にとって夏侯覇の話は思った以上に嫌なものらしい。
内容が何であれ、少しでも歩み寄ろうとしているこちらの思いを蔑ろにされているようで寂しい。
長く魏を離れ馴染みが薄かったとはいえ、親族が軒並み洛陽から逐われてしまい今は独りなのだ。
彼なりのこだわりを持って留め置いているのであれば、相応の話し相手を務めてほしい。



「司馬懿殿は、わたくしと相対しておられるはずなのに兜にばかり目を向けられて。いささか寂しゅうございます」
「そのようなつもりは! そも、兜は殿が手慰みに撫で続けるのが癪に障るのであって、決して殿を無下にしているわけではない」
「ではこれは司馬懿殿の目の届かぬ場所へ仕舞っておきましょう。ところで、司馬懿殿はなにゆえこちらへ?」
「ここは手狭ゆえ、何かとご不便でしょう。我が邸へ移っていただきたい」
「ご厚情嬉しゅうございますが、今の環境すらわたくしには過ぎたもの。このままで構いません」
「私が困るという意味です」


 父上はまーだ殿を迎えていないんですか、存外奥手なんですね。
の元を訪う直前、息子から揶揄された言葉を思い出し司馬懿は苦々しい顔をした。
迎えられるものならばとっくにしている、支度も整えた。
誰に遠慮するわけでもないので、が頷きさえすれば明日にでも終わる話なのだ。
曹爽を断罪した場に居合わせ激しく糾弾したと、彼女を庇う姿勢を見せた司馬一族の関係を疑う目は少なくない。
を単独にしておくのは不安だと、誰よりも過激な対応を見せた司馬師すら懸念を口にしている。
今のに味方はいない。
おそらくこちらも味方だとは思われていない。
彼女の身に万一のことがあれば、兜の主も嘆き憤るだろう。
それら思惑を知ってか知らずか、は暢気なものだ。
もっとも、暢気に見せかけて彼女なりに抵抗しているのかもしれない。
邸に入った自身の身柄がどうなるのかわからないほど、は愚かではない。




「今や洛陽には殿をよく思わぬ輩もおります」
「であれば尚のこと、司馬懿殿のご迷惑になりましょう」
殿が弑された方がよほど迷惑だと申し上げております」
「ですから先程困ると仰られたのですね」
殿!」
「また出直されたら如何でしょう? 今やここを訪れるのはあなただけ、来たい時に存分に、ごゆるりと」



 回りくどい言い方は苦手だ。
だから、こちらもそれに呼応するようにのらりくらりと躱してしまう。
恋を知らない少年でもあるまいに、何を彼は言い淀んでいるのだ。
命じて拒める状況にないとは双方わかりきっているのに、命じてこないのはこちらの感情を慮ったためか、あるいは不安が大きいのか。
は憤然とした面持ちで邸を後にした司馬懿の背中を見送った。
本当は来てほしくない。
ここにいる時に襲われても、彼を守るだけの警備も設備も何もかもが不足している。
邸へは来るなと彼の優秀な子息に吹き込んでおいた方が賢明だ。
は司馬懿の背中から視界をずらした。
林が不自然に揺れていた。




「なんかうちの父がご迷惑かけてすみません。ボケてるんですかね」「色ボケか?」「面白いご兄弟ですね」



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