その足音は裏切らない




 蜀軍の兵士は、いったいどこへ行ったのだろう。
ついこの間までは成都中を厳戒態勢で哨戒していたのに、今はどこを探しても見つからない。
まさか、全員牢獄の中?
いやいや、さすがにそんなことはないはずだ。
少なくなったとはいえ、蜀軍の兵士全員を年に繋げるほど成都の地下牢は広くはないと思う。
あれは魏軍、こっちも魏軍。
一応規律は取られているみたいだけど、正直あんまり出歩きたくないなあ。
蜀の地は、もはや蜀ではない。
敗残の国の民が受ける仕打ちは知らないけれど、何かあっても知らんぷりをされる。
そんな日が来てもおかしくはない。



「あら、ちゃん・・・。みんな心配してたのよ、ちゃん姜維様と仲良かったから」
「やだぁ、ただのお仕事仲間だよ。おばちゃんたちは平気?」
「ええ、まだ今のところは。どうしたの、お腹減った? 何か食べる?」
「うん、いつものちょうだ「おい、美味そうな飯じゃねぇか!俺にも寄越せ!」
「あっ、ちょ」



 背後から野太い声が聞こえ、体を脇へ追いやられる。
食堂のおばちゃんから手渡されようとしていたお店自慢の肉まんが、私の手に移る前に地面に落ちる。
もったいないじゃん、何やってんの。
砂に塗れて食べられなくなった肉まんをそのまま放置するわけにもいかず、ぶつぶつ呟きながらしゃがみ込む。
なんだぁ貴様、生意気な。
当たり前の文句が先程の乱暴な魏兵の気に障ったのか、しゃがんでいたのに襟首をつかまれ無理やり立ち上がらされる。
もう少し持ち上げられれば、足が地面から離れてしまいそうだ。
うう、酒と汗臭い。
蜀を制圧した喜びと解放感から羽目を外してもいいと思っているのか、昼間から漂わせていい匂いではない。
どうなっているのだ、魏軍の治安は。



「離してくれる?」
「貴様ごときが俺にそのような態度を取っていいと思っているのかあ?」
「あなたが誰か知らないですし・・・」
「俺は! 貴様たち蜀の民を制圧した! 勝者だ! 自らの過ちを認め俺にひれ伏すのなら、貴様の狼藉を許してやらんこともない」
「私、何かした? どっちかっていえば割り込んでおばちゃんの肉まん駄目にしたそっちの方がよっぽど悪いことしてない?」
ちゃん、おばちゃんはいいから! す、すみません、うちの商品で良ければいくらでも・・・」
「ふん、話がわかる婆じゃねぇか。それに比べて貴様は、この俺様が直々に躾けてやらんといかんようだなあ?」



 躾がなっていないのはそっちの方だ。
確かに私は諸葛亮様や月英様からかなり甘やかされて育てられた自負はあるけど、人前に出しても恥ずかしくないような教育はきちんと受けている。
物騒な世の中になってしまった。
劉禅様がこの国を治めていた頃は、こんなごろつきが出没しようものならすぐにその辺の兵がひっ捕らえていた。
蛮勇に脅され食料を差し出すこともなかったし、無意味に突き飛ばされたりすることもなかった。
嫌がる非力な女の子を無理やり引っ張って暗がりに連れ込むようなこともされなかった。
そんなことしてみろ、どこからともなく姜維殿や趙雲様のご子息あたりがすっ飛んできていた。
姜維殿のお小言はそれなりに嫌だったけど、あれもたぶんあの人なりに私を思っての行動だったんだと思う。
まあ、姜維殿のお小言どころか声すら二度と聞くことはないんだろうけど。



「あーあ、姜維殿いたらこんな奴一瞬で串刺しにされてたのになあ。ほんと肝心な時にいないんだから」
「姜維じゃなくて俺ならどうだ?」
「あっ、顔のいいお兄さんの弟!」
「よう、お前こんなところで何してる? 民に手を上げるなと言っただろう。軍律を守れない奴は俺の軍には不要だ」



 見覚えのある顔が、私を摘まみ上げていた魏兵の方をぽんと叩く。
お兄さんの口元が、殺すぞと言ったように動いた気がする。
たまたま乱暴者の上司だったのか、兵がひえぇぇぇと情けない声を上げて逃げ去る。
ちゃんと金切り声を上げて飛び出してきたおばちゃんに抱きつかれ、私は再び尻もちをついた。
うう、突き飛ばされた時にお尻を打ったばかりなのに、また痛い。



「おばちゃんごめんね? 肉まんいっぱい駄目にしちゃってごめんね」
「いいのよ、いいのよ、ちゃんが無事で良かった・・・!」
「あー、うちの兵が悪かった。怪我はないか? 肉まんの代金は支払わせてくれ・・・っていうか、俺も蜀の金は持ってないんだわ。、お前立て替えといてくんねぇかな?」
「いえ、そんなお代なんて!」
「貰っときなよ、おばちゃん! たぶんこれから大変になるから、今のうちにいろいろ蓄えといた方がいいよ。ま、今払うのは私なんだけど、後でめっちゃ色つけて返してもらうから」
「そーそー、そういうこと。んじゃな、また後で」



 ぽんぽんと頭を軽く叩き、軽やかな足取りで顔のいい男の弟が去っていく。
あんなにヘラヘラしてるのに蜀制圧まで来ちゃうなんて、ああ見えてあの人は意外にできる男なのかもしれない。
私はすっからかんになったお財布を懐に仕舞うと、肉まんを頬張った。




そっか、趙雲様のご子息も討死したからもう飛んでこないのか



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