私の好きな人が夫になりました




 諸葛亮殿がついに出仕したらしい。
彼の名前を元直以外から聞くことになるとは思わなかった。
私にとって諸葛亮殿は万年晴耕雨読の働きたがらない口達者な無職で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
可愛くて賢いお嫁さんと穏やかな性格の弟さんのためにもさっさと定職に就き、そして溜めに溜め込んでいる家賃を払ってほしい。
彼に願ったのはそれだけだった気さえする。
諸葛亮殿は、性格はさておき頭はすごく良かった。
あの人が考えていたことのひとつも私は理解していなかったはずだ。
ただ、あの羽扇に風向きを変える力があるのなら教えてくれていても良かったのになと思う。
私は元直の帰りを邸の門前で待ちながら、諸葛亮殿から押し付けられた白い羽扇を扇いでいた。
残念ながら私の扇ぎ方がおかしいのか、北風も南風も、そよ風すら吹きやしない。



「あの諸葛亮殿ですら赤壁で戦ってるのに、司馬懿殿はこんなとこで私とのんびり立ち話。もしかして邸に居場所、ない感じ?」
「お前にしては考えの筋がいいではないか」
「ご子息がお生まれになったそうで、おめでとうございます。奥様とも最近やっとご挨拶できたんですよ」
「・・・そうか。春華は何か言っていたか?」
「旦那様の相手は疲れるでしょうから程々でいいって労ってもらいました。いい奥様ですね、私も早く元直に妻と認めてもらいたい」



 元直は奥手だ。
私が追いかけてきた時点で私の気持ちには気付いているはずなのに、まったく手を出してこない。
大切だとは言ってくれたけど、それだけだ。
何の進展もなかった。
あの手この手を尽くし、料理には少々の混ぜ物を施すなどして迫っているのに、元直の理性は鉄よりも硬い。
触れてもくれない。
もしかして私ってそんなに魅力がないのだろうか。
確かに今日ここに至るまで誰からも口説かれたことはないし、縁談の一件すら舞い込んだことはなかった。
隆中にいた頃は日がな一日土いじりと諸葛亮夫妻の難しい話の聞き役ばかりだったから、見た目に頓着する必要がなかった。
月英殿の「殿はお綺麗ですね」というお世辞を、本音だと勘違いしていた。
そういえば許昌の人々は皆、綺麗に着飾って華やかだ。
司馬懿殿の奥様も良家の奥様という出で立ちで、どこに出しても恥ずかしくない威容だった。
元直は私の隣に立つのが恥ずかしいのでは。
田舎娘が抜けていない土臭そうな私の傍に本当は寄りたくないのでは。
いやでもそれならどうして、司馬懿殿は真横に立っているのだろう。
最近は羽扇の練習でない日も勝手に邸を訪れるようになった。
元直が赤壁に出陣してからはほぼ毎日だ。
ご自邸に居場所がないとはいえ、粗忽なご近所さんへの気遣いが細かすぎる。
神経質すぎて心配だ、お腹とか弱そう。



「ねえ司馬懿殿、私ってそんなに不美人ですか」
「誰がそんなことを言った」
「いや、私がふと真実に気付いたかもしれないだけなんですけど」
「お前は鏡を持っているか?」
「田舎娘だからって馬鹿にしてるでしょ。まあこないだ雷に驚いた拍子に落として割れたんですけど」
「徐庶殿に新しく仕立ててもらえ。・・・いいか、一度しか言わぬ」
「はい」
「お前は美しい」
「・・・やっぱり? やっぱりそうですよね、元直不能ってわけでもないだろうし、うーん」



 美人で料理もがんばり、ついでに羽扇から光線も飛ばせるようになりつつある私を元直が躊躇う理由がわからない。
うーんと苦悶の声を上げた私の頭上から、司馬懿殿の深く長いため息が落ちてくる。
このため息は諸葛亮殿もよくついていた。
軍師同士、似ているところがあるらしい。



「お前は何を聞き生きているのだろうな」
「人の話はちゃんと聞いてますよ。あっ元直だ」
「なに?」
「あっ、そそくさとどこ行くんですか司馬懿殿! 元直ー、ここだよー!」
! と司馬懿殿・・・? あの、がまた何か粗相を・・・」
「いや、私は別に・・・」
「もーやだ元直ってば! 司馬懿殿は元直がいない間毎日様子見に来てくれてたんだよ! 諸葛亮殿と似てるよねー」
「そうだね、君だけは何も変わっていないようで俺はものすごくほっとしている。司馬懿殿、お気遣いはありがたいのですが妻はこういう性格ですので以後は控えていただきたい」
「つ、妻。ねえ元直、妻って今!」
「ああ言った。孔明とも筋を通してきたからもういいんだ。ずっと待たせてごめん、



 いざ妻と言われると、それ以外の言葉が何も耳に入ってこない。
なるほど確かに司馬懿殿が嘆いたとおり、私は何かしらの言葉を聞き漏らしながら生きているらしい。
元直の妻宣言にたじろいた司馬懿殿が、足早に邸の前から去っていく。
入ろうか、
そう言って私の肩を抱く元直の手は、とても熱かった。




「元直の妻です、なんちゃってー!えへへ!」「明日から名乗っていいから」



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