ある夏の思い出




 昔、あなたによく似た方を見たことがあるのですよ。
お気に入りの味らしい葡萄味の肉まんを割りながら、つい先頃妻にしたばかりの女がにこやかに話す。
彼女が笑顔で話す内容は、大抵は前の夫と暮らした孫呉での話だ。
聞いている側は面白くも楽しくもないのだが、妻の屈託のない笑顔を見られる貴重な機会なので黙って聞いている。
司馬懿は肉まんの半分を受け取ると、食欲をそそられない断面を見せる肉まんを黙って見下ろした。
こういう時は話を聞いて気を紛らわせるに限るが、果たしてこの女にそんな芸当ができるだろうか。
続きをと催促すると、にこりと微笑んだ妻が口を開く。
よくこんな奇っ怪な味の肉まんを食べられるものだ。
孫呉にまともな肉まんはなかったのだろうか。
一度でいいから彼女に亡き妻、張春華の肉まんを食べさせてやりたかった。
その場に同席はしたくないが。



「建業にもこれとよく似た肉まんを出す店がございました」
「存じています。我々の息がかかった行商人を通わせていたので」
「もしや、それほど前からわたくしを・・・?」
「いえ、その頃は隙あらば殺すつもりでしたが」
「心変わりの激しいお方ですね」
「恐れ入ります」
「ある時、蜀より親善の使者が参りました。ふふ、姜維殿でした」



 嫌な名前を平気で口にする女だ。
その男が今もなお曹魏に牙を剥いていると知っている上で、思い出話を始めている。
彼女は、祖国を苦しめている敵将を憎いと思わないのだろうか。
それとも曹操の娘ともなれば、たとえ敵でも才ある者は認めるおおらかな心を持っているのだろうか。
おそらく今の彼女には、ここが祖国という感覚がないのだろう。
名ばかりの宗家、真に牛耳るのは司馬一族。
自らも司馬仲達という曹氏を追い詰めた男に囲われている身に過ぎない彼女にとって、帰るべき場所はもうないのかもしれない。



「興醒めする話なら控えていただきたい」
「姜維殿は諸葛亮殿のご息女ではない女人の護衛としていらしていたそうですが、こうして間近で見ると本当、あなたに似ておられたような」



 鼻のあたりや、特に口元。
そう言ってそっと顔に触れる妻の手を思わず掴む。
何を言い出すかと思えば、突然人生の核心を突いてきた。
その頃の妻は自分のことなど何も知らず、強いて言うなら命を狙っている危険な存在程度としか認識していなかったはずだ。
妻が語った人物は、おそらく娘だ。
育ててやれなかった不憫な娘だ。
娘を手放した時から生死を案じ、ありとあらゆる手段を講じて接近を図ってきた。
そのすべてが失敗に終わったのは、娘を不肖の父親に代わり育てている諸葛亮が何もかも叩き潰したからだ。
あれは、娘を実の娘のように可愛がっている。
諸葛亮の手元に置いておけば、少なくとも娘は司馬仲達の娘としての不遇を味わうことはない。
だから少しは安心していいのだ。
安心できるはずがなく、忘れられるはずもなかった。
抱くことすら許されなかった身勝手な愛情の末に生まれた娘を当然愛している。
娘のことは誰も知らない。
あの経緯は、前の妻にとっても思い出したくない苦い思い出だった。
それをまさか何の関係もない、ただその日その場に居合わせていただけの女の口から聞くことになろうとは。
司馬懿は妻の手を掴んだたま項垂れた。



「それは、本当に私に似ていたのか・・・?」
「あなたに体を寄せられねば気付かなかったのです、誰かに悟られるものでもありますまい」
「あれは、何か」
「楽しそうにされておいででした」
「そうか・・・」



 いつかお会いできると良いですね。
捕らえられた手に、妻がもう片方の手を重ねる。
この人は時々とてつもなく優しい。
縁もゆかりもない娘のことを、心の底から案じてくれている。
司馬懿は妻の葡萄の香りが漂う手に唇を寄せた。





「お子が他にもさぞやたくさんいらっしゃるのでしょうね、いささか不安です」「子らに限って気に病まれるようなことはない」



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