我が野望がようやく叶うのだ




 嫌な天気だ。
つい先程まで綺麗に晴れ渡っていたのに、急に雲が増え始めた。
一度浮かんでしまった雲は、役目を果たすまでは消えることができないらしい。
私はみるみるうちに膨らみ、そして薄暗くなっていく空をちらちらと見上げながら店を巡る足を早めていた。



「元直、今日はいい天気だねって言ってたのに・・・」



 よくよく思い返せば、元直の「今日はいい天気だね」は言葉に詰まった時の常套句だった。
たとえ外が土砂降りでも、元直にとっては「いい天気」なのだ。
軍師だったら、荒天でも策を実行するには「いい天気」なのかもしれない。
曹操軍に来てからの元直は軍師としての仕事を全くしなくなったらしいけど、体に染み付いた習性は抜けないらしい。
さすが元直、いつ軍師としてのお役目がきても充分にお勤めできる潜在能力の塊だ。
元直のことを考えながら歩いていると、ついに空が泣き出した。
しとしとと降っていたのは初めだけ、あっという間に桶をひっくり返したような豪雨へと様変わりした。
遠くの空ではゴロゴロと、聞きたくもない音も聞こえてくる。
嫌だな、出先で雷雨は勘弁してほしいな。
仕方がない、今日のお夕飯はほんの少し貧相になってしまうけど許してもらおう。
買い物を諦め、自宅へと踵を返す。
服の裾も汚れてしまうだろうけど、外に長居するよりはましだ。
小走りでぬかるんだ道を駆け始めた私は、角を曲がった先で何かにぶつかり尻餅をついた。
・・・と思ったんだけど、尻餅をつく寸前に腕を引かれた。



「うわ、司馬懿殿。どうしたんですか、ずぶ濡れじゃないですか」
「それはこちらの言い分だ。何をしている」
「見てのとおり買い物を・・・っと、あー・・・、全部泥まみれだ」



 さすがの司馬懿殿も、私を泥から救うのに精いっぱいだったらしい。
洗えば綺麗になる私よりも、泥に塗れたら取り返しが付かない食べ物たちを助けてほしかった。
そんな不満が顔に出ていたのか、司馬懿殿が苦々しい顔をしている。
いけない、司馬懿殿をずぶ濡れにさせておくわけにはいかない。
私は床に散らばった今日の夕飯になるはずだったものをかき集めると、司馬懿殿の横を通り過ぎょうとした。
ガシャーーーン!
大木を真っ二つに割ったかのような雷の轟音に、体が竦み上がる。
駄目だ、今は動かなければならないのに、体が固まってしまった。
せっかく拾った食材もまたぶちまけてしまって、でも拾い直すこともできないほどに体が怯えてしまっている。
ああ、そういえば隆中に住んでいた頃にも似たようなことがあった気がするな。
あの時はずぶ濡れで動けなくなった私を、諸葛亮殿が真っ青な顔で迎えに来たんだっけ。
諸葛亮殿元気かなあ、顔を思い出そうとしても稲光に遮られよく思い出せない。
動かない私を怪しんだのか、司馬懿殿が乱暴に肩を揺する。
司馬懿殿の手が妙に熱かった。



「・・・あ、えーと」

「だ、大丈夫、ちょーっと雷にびっくりしただけで、えっと」
「・・・来い」



 良かった、今度は司馬懿殿は食材も拾ってくれた。
動かない私をあっさりと抱え上げた司馬懿殿が、無言のままどこかへ向かって歩いていく。
その方角の先には、元直や司馬懿殿の邸はない。
司馬懿殿くらいの名家の育ちなら、別邸も構えているのかもしれない。
いやでも別邸よりも私たちの邸の方が近くない?
頭しか動かない状態で、ぐるぐると状況を考えてみる。
司馬懿殿が何をしようとしているのかさっぱりわからない。
これだから軍師は、私は敵ではないのだから内緒ごとは程々にして種明かしをしてほしい。



「あのー、司馬懿殿」

「私はいつまで抱きかかえられていれば?」



 軍師にあるまじき荒々しい手つきで開け放たれた邸に連れ込まれてからも、司馬懿殿が私を降ろしてくれる気配はない。
司馬懿殿が案外力持ちなのはわかったけど、私は米俵ではないので力自慢は別の機会に存分にやってほしい。
司馬懿殿と呼び続けたことがよほど煩くなったのか、司馬懿殿がようやく私を解放してくれる。
ああ良かった、これで帰れる。
泥まみれの地面でも硬い床でもない、柔らかな布に手のひらが触れる。
あれ、ここって?
考えが結論を導くより先に、司懿殿の手が伸びる。
やっぱり司馬懿殿の手は熱い。
先程よりも熱いと感じるのは、司馬懿殿が私の濡れて冷え切った服の下に直に手を差し込んでいるからだ。



「は? え? いや、ねえ、司馬懿殿」
「天候を読めば、すぐに知れるものよ」



 司馬懿殿にとっての「いい天気」は、私の好みとは絶対に相容れない。
私の声は、止まない雷鳴ですべて届かなかった。




忘れたか?お前は美しいと言った日の、私の目を!



分岐に戻る