花言葉はきかないで




 こんにちはと背後から声をかけられ、花壇を弄る手を止める。
声の主を顧みると、今日も穏やかに微笑む若者が佇んでいる。
花よりも食べ物、特に酒。
何よりも食欲を優先する将が多い中で、彼はほんの少し異質だ。
は手についた土を軽く落とし立ち上がると、青年の顔を仰ぎ見た。



「こんにちは、今日も綺麗ですね」
「そうですか」
「あ、ありがとうございます・・・・・・。これはつい昨日咲いたばかりなんです」
「姜維様は本当に花がお好きなんですね」
「え? あぁ、そうだな・・・」



花が好きと宣言してくれる男は驚くほど少ない。
毎日違う花を頭に飾っている関索を除いては、公然と花を愛でる趣味を持つ男に姜維と知り合うまで出会ったことがなかった。
固く痩せた土地の改良を任務として与えられ、どうしたものかと悩んだ挙句、人々の心を和ませるための花壇を造り始めて数年。
ようやく色とりどりの花で人々の目を楽しませるまでに成長した花壇には姜維も満足してくれているようだ。
初めて声をかけられた時は驚きで心臓までも土に埋めそうになってしまったが、慣れてしまえば花好きの同士として接することができるようになった気がする。
まだ少しぎこちないが、それは蕾が花開いたのと同じ頃、自分の心の中でも彼に対する淡い感情が芽吹いたからだろう。
鍛錬終わりの時間、姜維に声をかけられる時間はにとって一日で最も大好きなひとときだった。



「もしよろしければ姜維様にこの花差し上げます」
「良いのですか? せっかく丹精込めて育てた花だろうに、摘んでしまっては・・・」
「これは丈夫な花ですし、その、水差しに飾っていただけたら長く保つので・・・」



 いつになく長い時間姜維に見つめられ、恥ずかしくなり目を伏せる。
いくら花が好きとはいえ、姜維は蜀の次代を担う多忙を極める将軍だ。
たかだか花ごときの面倒を見る時間があるわけがない。
好きな花を同じように気に入ってもらった喜びで、つい分不相応な申し出をしてしまった。
彼は将軍、こちらはただの土と泥で汚れっぱなしの下っ端の女官。
すみませんと謝罪の言葉を口にしようとしたは、いただきますと言う嬉しげな姜維の声に目を瞬かせた。



「ほ、本当に? ご面倒ではないのですか?」
「面倒などまったく。ありがとうございます、枯らさないよう誠心誠意育てます」
「あ、ありがとうございます! ・・・良かった、綺麗に咲いてくれて・・・」



 井戸から汲んできた水に手持ちの布を浸し、そっと花を包む。
こんな展開が訪れるなら、今日だけでも華やかな手巾を持ってくるべきだった。
姜維の手に渡る一輪の花が羨ましい。
花に抱いてしまった憧れと嫉妬と名残惜しさのせいか、渡すのに手間取り姜維の指と触れる。
視界に捉えることができなかった俊敏な動きで、差し出されていた姜維の手が引っ込む。
当たり前だ、爪の間にも土が挟まったような汚れた手で触れてほしくないに決まっている。
彼とは花好きというただ一点でしか交わることができない関係なのだ。
当たり前の現実に落ち込んでしまうのは、紛れもなく彼に対して色鮮やかな感情を抱いているからだ。



「すまない、動転してしまった。怪我はないだろうか」
「はい。私の方こそ申し訳ありません。花を大切にして下さると嬉しいです」
「ああ、あなたと思って接すると約束しよう」



 改めて手渡された花を、姜維がじっくりと眺めている。
彼に任せておけば、花は枯れてしまうその日まで美しい姿を保っていられるはずだ。
は花を懐に仕舞い花壇を後にする姜維の背中を見送った。
姿が見えなくなった頃、どこからともなく現れた花よりも華やかに彩った娘たちがと声高に呼ばわった。






















 味気ない文机にぽつんと置かれた赤い花をずっと眺めている。
言われたとおり毎日欠かさず水を変え、花は日光が好きだろうかと登庁直後は窓際で日光浴などもさせている。
名前を知らない花を、まるでどこかの姫君のように丁重に扱っている。
諸葛亮は、花を愛で始めた弟子の姿に目を細めた。



「それは何という花ですか」
「わかりません」
「花が好きではないのですか?」
「いえ、それほど」
「・・・なぜ愛でているのですか?」
「これしか私にはないのです」



 少し仕事を与えすぎているのかもしれない。
もう少し早く邸に帰して、夜はゆっくり休んでもらった方が良さそうだ。
勉学も政務も来るべき北伐も、強靭な肉体と精神がなければなし得ない。
姜維が何をもって花を愛でているのか真意はわからないが、花の存在が彼の心を支えているのであればとやかくは言うまい。
弟子の複雑な心中を推し測ることを諦めた諸葛亮は、姜維の叫び声に眉を潜めた。




「花びらが落ちてしまいました・・・」
「萎れる頃合いだったのでしょう、随分と長く保ったように思いますが」
「枯らすわけにはいかないのです。丞相、何か打つ手は・・・!」
「姜維、花はいつかは枯れゆくものです。それはあなたも承知しているはず・・・」
「ですが、それでも私は・・・!」



 花を受け取った時、ほんの僅かに触れた指のぬくもりと柔らかさに驚いて乱暴に手を動かしてしまった。
もしかしたらその時に花も傷つけてしまったのかもしれない。
彼女は、水差しに飾れば長く保つと言っていた。
まだたったの10日あまりだ、まったく長くない。
対処法を早急に伝授してもらいたいが、花を渡された日以降、彼女の姿を見ていない。
こちらが声をかけるまでせっせと花壇の手入れに勤しんでいた彼女の居場所には、今はなぜだか派手に着飾った女たちが徘徊している。
馴れ馴れしくごきげんようと声をかけてくるが、彼女たちと親しむ理由はないので尽く聞こえないふりをしている。
花が萎れ始めてからは暇さえあればあらゆる農場や花壇を巡回し娘を探したが、どこにもいない。
そうこうしているうちに花は萎れ、茶色くなり、少々鼻につく匂いを漂わせ、やがてすっかり干からびてしまった。
姜維はかつては花だった枯れた物体を片手に、とぼとぼと花壇を横切った。



「あら姜維様、そのお手にお持ちなのはゴミですか?わたくし捨てて差し上げましょう」
「代わりにお花はいかがですか?よりどりみどり、お好きなお花をどうぞ」
「人型の花の方がお好きなら、わたしたち喜んで・・・」
「それに触るな! ・・・ここの前の担当は今どこに?」
「や、やぁだ急に大きな声なんて出して、こわぁい・・・」
「知っているのかいないのか聞いている」



 蛾よりも煩い女たちが顔を見合わせ、震えながら同じ方角を指差す。
礼を言うこともなく遠ざかろうとする背中に、怖いだの野蛮だのと冷ややかな悪態がぶつけられる。
暖かな視線でいつまでも見送られていたあの時に、戻れるのならば今すぐ戻りたい。
姜維は、荒れた畑の隅にしゃがみ込んでいる娘を見つけるとそっと背後から近付いた。
背中越しに見える手は土だらけで、それだけで安心してしまう。
姜維は娘の隣に腰を下ろした。
やはり畑の手入れに集中しているようで、周囲の異変に気付くことはない。



「こんにちは」
「え・・・? まあ、姜維様・・・。どうしてこんな所に・・・」
「・・・」
「あの・・・」
「は、花が、綺麗ですね」
「花? あの、これは花ではなくて雑草なんですけども・・・」
「・・・すみません、本当は花のことは好きでも嫌いでもないんだ」



 本当のことを言えば、きっと彼女は落ち込んでしまう。
花が好きな同士だと思われていたから親しんでくれていただけ。
彼女が好きな花に向けていた柔らかく暖かな笑顔をこちらに見せてほしくて、毎日彼女を騙していた。
自分の心は、彼女の手のように美しくない。
振り向いてほしい一心で卑怯な手を使ったから、綺麗な花も枯らしてしまった。
もう何度目かもわからない謝罪の言葉を黙って聞いていた娘が、あのと控えめに声を上げた。



「姜維様はわざわざ謝るために私を探しに・・・?」
「あなたが知らなかったとはいえ、私はあなたを騙していた。もらった花も枯らしてしまった、このように」
「お渡ししてから随分経ちましたし、枯れるのは道理かと・・・」
「本当は毎日状況を報告して指示を仰ぎたかったのですが、見つけられず」
「姜維様にお花をお渡しした後、配置換えになったんです。ご迷惑をおかけしました」
「いや、私が勝手に探していただけだ。あなたが気に病む必要はない」
「え?」



 話すきっかけが欲しかった。
話しかけるのが日課になっていた。
彼女は何も知らない。
知ってほしいが、知られてまた理不尽な配置換えに見舞われてはならない。
今の自分の力ではまだ彼女を守ることはできない。
姜維は、受け取ったばかりの枯れた花をぐしゃぐしゃに潰している娘を見下ろした。
よく見ると手のひらにころころとした黒い粒が乗っている。
獣の糞にしては小さいし、なにより臭いがしない。



「姜維様が枯らしてくれたおかげで、種が採れました」
「え?」
「この花は枯れると、花だった部分から種が採れるんです。ほら、こんなにたくさん。早速植えようかしら」
「では私も」
「え、でも姜維様はお花は好きでも嫌いでもないと・・・」
「はい、この花の名前も知りません。・・・あなたと過ごす時間が欲しくて花が好きなふりをして、あなただと思って花に接してきたと言えば、どう思いますか」
「・・・・・・私本当は、あの日姜維様に貰われていった花が羨ましかったんです。ですからその・・・嬉しいです」



 花のような真っ赤になった顔を隠すよう、娘が地面に視線を落とす。
姜維は固く握られた手をゆっくりと開かせると、種を半分手に取った。
ようやくまともに触れることができた手は、命を育み育てる女神のように美しい。



「花の名前よりまず、あなたの名前を教えていただけませんか」
です・・・」
「では殿、これからは私と一緒に」
「花ですか・・・?」
「私は花よりも殿の方が好きですね。ちなみにこの花は花の中では一番好きなので、何の花か教えて下さい」
「嫌です・・・」
「え・・・」



 誰かに訊いて調べたりもしないで下さい・・・。
真っ赤な顔のまま必死に懇願するに、姜維はにっこりと頷いてみせた。




「勝手に調べたら毒を盛ります・・・」



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