流れ星の置き土産     Epilogue







 何度も訪れた邸だ。
心優しい主人やその家族からは我が家と思いいつでも来て良いと言われ、足繁く通った大好きな場所だ。
見慣れた門を潜り庭を歩いていると、前方に蹲っている人物を見つける。
主自らが手ずから整えた花壇はとても綺麗だ。
は曹仁に歩み寄ると声をかけた。



「お休みのところお伺いしてしまって申し訳ありません、曹仁様」
「何を言うか、。そなたが顔を見せぬと家の者らも寂しがる。さて、中へ入ろう。今日はが好きな菓子が手に入ったのだ」
「それは良い時に伺えました」



 話はもう耳に入っているのだろうか。
曹仁から養女にならないかと申し出を受けたのは、樊城での戦いを終え間もなくのことだった。
強がってはいたがあの時にできた怪我はなかなかに酷く、今までのように戦い続けることはできそうにないものだった。
これはいよいよ兵卒生活も引退か、さて次はどうしよう。
新たな食い扶持を探そうかと思案している最中に上司から唐突に求婚されてしまった。
曹仁からの申し出もちょうどその頃だった。
養女といっても、家に従わせるものではない。亡くした元の家族を忘れろというものでもない。
娘のように可愛がっていたつもりで、これからもそのつもりでいたいから、それだけが理由だという。
今まで考えたこともなくてとても驚いてしまった。
本当に誰かの家族になる日が来るとは思いもしなかった。
嬉しかった。だが、立ち止まってしまった。
今日は立ち止った理由を告げに来たのだ。



「先日のお話、とても嬉しかったです。ありがとうございました」
「自分の方こそ、もっと早くに伝えるべきであったものを遅くなってしまった。無理を強いるものではないゆえ、が望むように決めるのが最善であろう」
「ありがとうございます。・・・実は、とある方に妻にならないかと言われました」
「おお、おお、そうであったのか! して相手は? が婚儀を挙げるとなれば皆もさぞ喜ぼう」
「賈ク様です」
「今、なんと?」
「賈ク様です。私もまったく心当たりがなかったのですが。・・・それで、お受けしようと考えています」
「良いのか?」
「はい。嫌いではありませんし、その話を聞いた時も嫌ではなかったので。ただ、あの方の妻になるのであれば、私は曹仁様の養女にはなれません」



 どれだけ曹魏で抜群の戦果を挙げようと、賈クは外様の降将だ。
主の息子と側近を謀略で殺めたという事実は消せない。
賈ク自身ももちろんそれは誰よりも自覚していて、それゆえか権力の匂いがするものにあまり関わろうとしない。
賢明な判断だと思う。
どこまでも策士だと思う。
彼が自分を妻に望んだのも、ひょっとしたら天涯孤独の身だったのが決め手だったかもしれない。
養女とはいえ、曹仁の家に連なるということは宗家との繋がりができるということだ。
政治に疎いでも、その意味は理解していた。




「曹仁様のことは、私も父のように思っています。奥様やご子息にもとても良くしていただいて、家族を亡くした私はちっとも寂しくありませんでした。ですが・・・」
「良いのだ。そなたが考え選んだ道なのだ。であれば何を妨げよう、自分はの幸せがなによりの望みなのだ。賈ク殿の傍にいたいというのであれば止めはせぬ。言わんとしている旨はわかる」
「・・・ありがとうございます」
「しかし賈ク殿か・・・。何があるかわからぬものよな、こればかりは。皆もさぞや驚くであろう」
「ですが、きっと喜んでくれると思います。だって、私が幸せなんですから」




 そう話し柔らかく笑うの顔は、どこにでもいるありふれた娘のようだ。
ようやく辿り着いた。
長かったが、やっと取り戻してくれた。
と賈クは渋るだろうが、婚礼の儀があるのなら盛大に祝ってやろう。
誰もが身分を問わずを案じていた。
皆、己がの父で兄で母で姉のつもりだったのだ。
これほど嬉しいことはこれから先もうないだろう。
先に逝った者たちの分も祝ってやりたい。しっかりと見届ける義務がある。



「またいつでも遊びに来るがいい。賈ク殿に泣かされるようなことあらばこの曹子孝、全力で打ち払わん!」
「まあ、それはとても頼もしいです!」



 心配ばかりかけてきたが、曹仁が笑ってくれて、安堵してくれて良かった。
は曹仁に見送られ邸を出ると、賈クの執務室へと歩き出した
返事をする前に伝えておかなければならないことがある。
賈クは何と言うだろうか。驚くだろう。
許可されなければそれまでだ、新天地を探す。
どのみち、もう兵としては戦えないのだ。
無理を重ね誤魔化して従軍できるような代物ではない。
己の身を守るくらいはできるかもしれないが、国を守るような働きはもうできない。
だとすれば、取るべき道はひとつだけだ。
仕事場へ入ると、しかめ面で書簡に向かっていた賈クが顔を上げる。
今日も疲れているようだ。
つまらない机仕事よりも、外で策略を練りたくてたまらないといった顔をしている。
そうわかってしまうようになったのは、こちらも少なからず彼を意識しているからなのだろう。
人の心とは本当に不可思議なものだ。
これが郭嘉が望んでいたものだというのなら、随分と遠回りをした。
遠回りしなければ得られなかった大切な感情だ。
二度と失くさないように大切にしていきたい。




「今日は休みを取ると聞いていたが、仕事熱心なことで」
「どうしてもお話しておかなければならないことがあったので」
「ほう、聞こうじゃないか」
「職を辞そうと考えています。今までお世話になりました」
「理由は? この期に及んで俺から逃げるというなら地の果てまで追い詰めるつもりだが」
「さる方に妻にと望まれていて、その話を受けるつもりなので」
「・・・俺はあんたを閉じ込めたいわけではないんだが」
「私も閉じ込められるつもりはありません。ですが私は、私がどのような立場にあるのかわかっているつもりです。だから私は夫の・・・、賈ク様、あなたを待ちます。
 それだけで意味があるのですから」



 ふたつを同時には得られない。
優秀な副官を得るか、欲に従い妻を娶るかのどちらかしか選べない。
片方しか選ばせない。
一旦は緩んでいた賈クの眉間に、再び皺が深く刻まれる。
あまり老けた顔にはなってほしくないのだが、わがままを言うのはまだ少し早い。
賈クは立ち上がると、目の前の女性を見下ろした。
すっきりとした顔をしている。
辛そうな顔はしていない。
はじめ辞職を告げられた時は驚いたが、彼女らしい選択だと思う。
まっとうに可愛がられ育てられてきたことを彼女は正面から受け止めている。
彼女なりにけじめをつけてきて、今日の告白だったのだろう。
彼女の選択をとやかく言うつもりは微塵もない。
彼女が自らの意思で選ぶのがなによりも大切なのだ。
彼女が何をしたいのか、それを見守るのが残された者の務めだとかつての同僚だった無口な戦術家も言っていた。
幸せなのか。
思わず漏れたその言葉に、が首を傾げる。
急に不安になり狼狽えていると、があのうと口を開いた。



「幸せにして下さるわけではない、と・・・? だったら駄目です、やっぱりお断り「する! するから、あんたはどうしてそう心臓に悪い決断だけは早いんだ・・・。李典殿の気持ちがよくわかる・・・」
「冗談です。・・・なんだか楽しいです。まさか最後の最後にこんな終わりが待っているなんて、きっとみんなも喜んでくれます」
「あんたはどうなんだ? 俺は正直、あんたに好かれていい奴ではないと今でも思っている。かといって他の男にくれてやるつもりも毛頭ないんだが、、本当に俺でいいのか?」
「はい。賈ク様こそ、私の退役は了承していただけますか?」
「やれやれ、代わりの人手を探すのが大変だ」



 代えの利かない嫁を探す方がよほど大変だろうに、つくづく憎たらしい男だ。
だが、そんな男と一緒にいる時間が心地良い。
は既に作り上げていた後任者候補一覧を差し出すと、退役届をしたため始めた。








あとがき
完結しました!これで完結! 荀彧様の失恋相手が気になる方は別作品を読んでほしいです





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