4.眩しくて見ていられない




 新しい朝が来た。
希望も何もない、刻限になればまた新しい仕事がどっさりと届くいつもの朝だ。
を迎えるまでは果たしてこれらの書簡はどうやって処理をしていたのか思い出そうとするが、あの頃はまだ今日ほどの任務はなかった。
位が上がったのは最近のことだ。
呂蒙の下で研鑽を積んでいた頃はまだ、それほど責任が重い仕事も多くはなかった。
これはああしよう、何はどうしようと甘寧や凌統、朱然たちと策を練り呂蒙の決裁を仰いでいた。
を部下として迎え入れてからとんとん拍子に出世し、仕事もどんどん積み重なっていった。
それでも明け方まで執務室に缶詰めになる日がなかったのは、書記官として働いていたの才幹に依るところが大きかったのだろう。
一日三度は欠かさず愛を囁き、昼食も休息も規則正しく摂り、定刻通りに仕事を終わらせていたあの頃が懐かしい。
はいったいどんな仕事をしていたのか、彼女の顔ばかり眺めていたのに何も思い出せない。
よく叱られていた気はする、怒った顔のもとても魅力的だった。



「それでご自宅にお戻りになられていないのですか。あまり根を詰められませんように」
「幻でしょうか。今、殿が私のために朝餉を持ってきてくれたような」
「幻でございましょう。陸遜殿、公績殿が朝餉を共にどうかと仰っておいでです」
「同僚の新婚のお屋敷にお邪魔するような野暮ではありませんよ、私は」
「わたくしも陸遜殿であればそう仰るはずと申し上げたのですが、公績殿はそれでも一度誘ってごらんと。お優しい方です」
「それで渋々私を誘いに来たんですか。同情します」



 情けはいりませんと険しい表情で切り返され、目を細める。
徹夜明けで疲れた目には受け入れがたい厳しさだ、いっそこのまま崩れ落ちてしまいたい。
朝餉を摂る暇があるのならわずかな時間でも眠っていたいし、一度屋敷にも帰りたい。
目の前で逃がさないとばかりに佇んでいる遠縁の女性が時折屋敷を片付けてくれているらしいが、人妻となってしまった彼女にいつまでも任せるわけにもいかない。
彼女にしてもらうくらいならばを攫ってでも自邸に留めておきたいので、勝手なことをしないでほしい。
陸遜は退くつもりがないらしい彼女に降参の意を込め両手を上げると、凌統邸へ歩き始めた。




「このところ仕事がなかなか捗らなくて、気付けば朝になっています」
殿不在の間、どなたか別の方にお願いすればよろしいのでは」
「私の下で働きたいという方は大勢いるのですが皆目的が違うのです、嘆かわしい」
「陸遜殿が都督になられ陸家の再興も進んでいる中、豪族の方々が閨閥を築きたいとお思いになるのはもっともなことでございます」
「ええ、そうですね。私もそれはある程度は覚悟していました。ですが、来られる方が皆そうなのです。頭がおかしくなります」
「わたくしが以前のようにお力添えできれば良いのですが・・・」
「結構です。あなたが来ると別の意味で騒がしくなります。それに、今はあまり動かない方がいいでしょう」
「・・・そのようですね」



 仔細を語らずとも、匂わせれば理解してくれる聡明な女性だ。
自らが動くことによって厄介事が発生しかねないという危険も理解しているのだろう、それ以上は何も言わない。
聡すぎる彼女を妻として無事迎えた凌統は、大丈夫なのだろうか。
隠したいこと、隠さなければならないことを無事に隠せ通せるのだろうか。
知っていても知らないふりを何食わぬ顔でやってのける恐ろしい女だ。
そんな女と、たとえ愛する妻とはいえ四六時中共にいることなど自分に置き換えたらできる気がしない。
やはりが一番だ。
でなければ生きていけない。



「そういえば陸遜殿、ご存じでしたか」
「何ですか」
「この時間、向こうの通りで出勤途中の殿をお見かけすることができるのですよ」
「どうしてそれを早く言わないんですか! 殿、どこですか! 私はここですよ、殿! ああ、通りが憎い! ここが焼け野原なら何の躊躇いもなく殿の元へ駆けられるのに!」
「都督にあるまじき発言はお控えください、陸遜殿」



 于禁邸へ出勤しているのであろう、と思しき娘の後ろ姿に向かって必死に呼びかける。
夕餉抜きで朝餉もまだ食べていない空腹状態での絶叫に、頭がくらくらする。
陸遜は気を抜けば前へのめり倒れそうになる自身の頭を押さえると、もう一度と叫んだ。




元に戻る