ラダトーム 1
旅立ちの朝は、いつもと同じ朝だった。
わいわいと朝食を囲み、大量に砂糖を摂取すれば叱られてと、今から未知の世界へ向かうとは思えない賑やかさだった。
日常の延長線でアレフガルドに行く、ただそれだけのこと。
何も特別なことなどなかった。
そう思えるようになるほどに、リグたちの心は落ち着いていた。
「準備するもんちゃんとしたんだろうな、バース」
「してるよ。ていうか、あっちにも文化は栄えて店もあるんだからそう荷物持ってく必要ないって」
「そういや金はどうなんだ、通貨こっちと一緒?」
「いや、違うけど」
「じゃあ俺ら無一文か・・・。仕方ない、お前の家根城にするか」
「だから、俺んち家庭崩壊してるんだけど」
俺の家なんか家ごと大魔神に踏み潰されて全壊してんだよ。
我が家は精神的な破滅してるんです。
崩壊トークを延々と始めたリグとバースを見つめ、ライムとエルファは苦笑を浮かべた。
どちらもかなり深刻な状態のはずなのだがなぜだろう、まったく切迫感が感じられない。
リグとリゼルの家は、未だに更地のままだ。
レーベからせっせと木材は運び込まれているが、木造建築住宅は燃えるわ潰れるわで危険だと物議を醸し、作業が捗っていないらしい。
勇者の生家らしく記念館も併設すべきだといったもはや住居としては完全に向いていない形態も案の1つにあるようで、リゼルは困ったものだわと苦言を呈していた。
穏やかな母が戸惑うほどなので、よほどのことなのだろう。
このままではそのうち、リグもいないし1人で気ままに移住しようかしらと言い出しかねない。
「ああフィル、これ預けとくから」
「え? ・・・これって」
「リグ、それはネクロゴンド王室の・・・」
「ネクロゴンドのゴタゴタは終わったんだからこれはもういらないだろ。アレフガルドのことは載ってなかったから、あっちに持ってく必要もないし」
「でもリグ、これは持つことに意義が・・・!」
「エルファが言いたいこともわかってるつもりだ。これはそこらにぽんと置いていいものじゃない。
でも母さんはこれを見たくはないだろうし、そもそも俺は自分の部屋がないから置き場所もないんだよ」
リグは古びた本をフィルに手渡すと、残っていたスープを口に流し込んだ。
フィルにはこの本について、少しだけ話して聞かせた。
物わかりはいいフィルだから、これがいかに特別なものかは理解したようだった。
リグやリゼル、ネクロゴンド王家に連なる人々にとってはこの上なく特別な、血の掟とも言うべき門外不出の古文書。
しかしそれ以外の世界中の人々にとっては読むことすら叶わない、ただの古びた白紙の束。
ネクロゴンド王家の血を引かないフィルにとってもこれは、何の文字1つ書かれていないただの骨董品だろう。
売ってもはした金にもならないことはわかっているはずだ。
無駄に年月を重ねたガラクタ、その表現が最も正しかった。
「いらないと思ったら捨てていいからな。その本読める奴なんざもうこの世界には2人しかいないんだし」
「捨てないよ、大事な預かり物だもん」
「あ、白紙に見えるからって上からインク垂らすなよ。そいつ超扱いにくいから呪われるかもしれない」
「ちょっとやだ・・・、そんなの私に押しつけるの?」
「リグ、フィルをからかうのはやめなさい。大丈夫よ、呪うわけないじゃない本が」
ライムは出発直前まで冗談ばかり口にしてフィルを怒らせるリグを嗜めると、一足先にラーミアへと歩み寄った。
おはようラーミアと声をかけると、ラーミアも嬉しそうに翼をはためかせる。
先日ラーミアに言われた不穏な予言は気にかかるが、だからといってどうすることもできない。
傷つくことがないように、万全の態勢で戦いに臨むしかない。
魔物と戦うことに恐怖はあるが、戦うしかないのだ。
戦うことでしか、自分は世界を救う手助けはできないのだ。
『ライム、その、この間はすみませんでした。不安にさせるようなことを言ってしまって・・・』
「気にしなくていいのよ。むしろ、私がありがとうって言うべきだわ。ありがとうラーミア、私は全力であなたの予想を裏切るから」
『そうして下さい。ライムが傷つくと、たくさんの人が、もちろん私も悲しんでしまいますから』
「何が悲しいんだ? ほんとにラーミアはライムに懐いてんな。ライムはそんなに心正しき人間なのか?」
『はい! ライムはとても素敵な人間です。でも、リグやマイラヴェル、エルファのことも同じくらい好きです!』
「マイラヴェルじゃなくて俺はバースだから。まあ、その人のことも向こうに着いたらぼちぼち話した方が良さそうだな」
これから先、果たして自分はどこまで正気でいられるのだろうか。
リグたちは本当に、どんな自分を見ても受け入れてくれるのだろうか。
バースは大空を雄大に舞うラーミアの背からネクロゴンド西にぽっかりと開いている穴を見下ろし、ゆっくりと瞳を閉じた。