あの日見た奴の顔を俺は絶対に忘れない
海外サッカーの放送を眺めているひとつ屋根の下に住む綺麗なお姉さんが、わぁイケメンと歓声を上げる。
かっこいいプレイしてるねと話しかけられ、そうですねと相槌を打つ。
かっこいいプレイが何を指しているのかわからないが、わからないことが恥ずかしいので話を合わせている。
剣城はの視線が追い続けている選手を見つめた。
顔が良いのかプレイスタイルが良いのか、何度見てもよくわからない。
「ま、フィーくんの方がかっこいいんだけどね」
「さんはイケメンが好きなんですか?」
「う~ん」
「豪炎寺さんもめちゃくちゃかっこいいですよね」
「修也のファイアトルネードはかっこいいよ」
「豪炎寺さん自体もかっこいいですよね。昔からかっこよかったんですか?」
「ファイアトルネードはずっとそうだよ」
大人げなく意地を張っているのに、ファイアトルネードだけは全肯定しているあたりが可愛くてたまらない。
この人本当に大人なのかなと、に尋ねれば確実に怒られる疑問が口から飛び出そうになる。
そういえば、と剣城は呟いた。
彼女の自称夫の顔を見たことがない。
写真の中の彼は昔から眼鏡だかゴーグルだかを装着しており、真の顔を一度も見たことがない。
が認めたくらいだから、彼も実はイケメンなのだろうか。
豪炎寺より男前のサッカープレイヤーが存在するとは思えない。
剣城は試合終了を見計らい、に疑念をキラーパスした。
「鬼道コーチってどんな顔ですか?」
「かっこいいよ~。京介くんもほぼほぼ毎日見てるじゃん」
「ゴーグルを外した姿は見たことありません」
「鬼道くんほぼほぼ毎日ゴーグルつけてるもんね」
「素顔を見たいです」
「見せてって言えば見せてくれるんじゃない?」
「さんは最近だといつ見ました?」
「えーっと・・・」
「鬼道コーチはさんの前でも素顔を見せないんですか? 夫を名乗っているのに?」
「まあ私はそんなに気にしてないし。あと鬼道くんはマジの私のダーリンだから」
初めて会った時からゴーグルつけてたから、むしろゴーグルつけてる姿が素顔みたいな?
たははと苦笑いするに、かっと体が熱くなる。
は無理をしている。
好きな人の素顔が見れなくて気にしない猛者などいない。
ゴーグルが素顔のわけがない。
は鬼道の我儘に振り回されている。
鬼道はの惚れた弱みにつけ込んで、誰よりも何よりも大切なはずのを悲しませている。
次に会ったら飛びかかってゴーグルを毟り取ってやる。
にせっせと鍛えられたおかげで体幹には自信がある。
何と言われようが躊躇しない。
鬼道の自尊心や虚栄心よりもの心の平穏が大事だ。
「なぁに、京介くんもゴーグル欲しくなっちゃった? 私スペア持ってるから貸したげよっか」
「いりません」
「京介くん眼鏡も似合うと思うけどな~」
「・・・ほんとにそう思ってますか」
「思う思う! 京介くんイケメンだから何やったってかっこいいと思うよ!」
この人は、他人の心を揺さぶることにかけては世界で一番のプレイヤーかもしれない。
本人にとってはなんてことない軽口で相手を喜ばせ、ニヤニヤさせて。
ひょっとしては眼鏡をかけた男性が好きなのだろうか。
鬼道ではなく、鬼道に装着されているゴーグルに魅せられた?
剣城はテレビの電源を切るとの名を呼んだ。
いつか見せてやりますよ、俺の本気を。
曰く「くそガキ時代」に培った不敵な笑みを浮かべると、がへにゃりと笑い返した。
大変だったねえと脱衣所の扉越しにの声が響き渡る。
教え子が部室に置いていった忘れ物を届けに来る途中、結構な勢いの夕立ちに見舞われた。
家に上がり込むつもりはなかったが、昔から自身の居所の施錠と警戒心が甘いだ。
ずぶ濡れの体を見るなりシャワーを浴びるよう促され、あっという間に浴室に案内された。
ごうんごうんと洗濯機が唸っているので、超速で洗ってくれているのかもしれない。
世界でいちばん素晴らしい妻だと思う。
「剣城は?」
「秋ちゃんとこに居候してるなんとかくんってとこに遊びに行ってる」
「松風だ。雨に祟られていないといいが」
「雨が止んでから帰るって連絡来たからたぶん大丈夫」
「そうか」
「今、ちょっと嬉しかったでしょ〜」
「否定はしない」
誰もが知っている有名サッカー選手直筆サイン入りのユニフォームが無造作に脱衣籠に入れられている。
オークションに出せば途方もない値がつくであろうそれを眺めていると、がひょっこりと顔を出し他のが良かったと問いかける。
そういう意味ではないと答え袖を通す。
何の変哲もない特別広くもない至って普通のマンションの一室だが、早急にセキュリティサービスを手配したくなる。
の手に代わりとばかりにぶら下がっていたそれらも、数着売れば家が建つと思われる代物だ。
の人脈が誇らしくも恐ろしい。
「身ひとつで連れて来られたのによく持っていたな」
「それね~、ユニのデザインが変わったからってわざわざ送ってくれたやつ。色で選んだけど似合う似合う! さすが私」
「プレイスタイルで選んだわけではないのか」
「それだと選ぶのに時間かかりすぎて有人さん風邪引いちゃうから・・・」
かっこいいねと手放しで褒められ頬を緩める。
剣城が在宅していなくて良かった。
にべったりの剣城は、コーチとしては信任してくれているがプライベートではほとんど敵視されている。
夫は自称でしょうと言われたこともある。
こちらは大人なので手厳しいなの一言と苦笑で済ませたが、同年代なら容赦しなかった。
フィフスセクターの混乱も終焉した今、と剣城が一緒に暮らす必要はどこにもない。
よくわからない男が所有している部屋に住み続けるよりも、夫の実家の方が住みやすいに決まっている。
義実家での同居は世間ではタブー視されているか、我が家に限ってはそんなことはないと自負している。
なぜなら鬼道邸は住所こそ同じだが、別邸が数棟存在している。
「京介くんしばらく帰ってこないと思うし、ゆっくりしてったら?」
「剣城に遠慮する必要はそもそもないんだがな」
「京介くん私のこと好きすぎるから有人さんライバル視してるもんね〜。そういや京介くん、有人さんの素顔見たいって言ってたよ」
「俺の? 今更どうして」
「わかんない」
が男心を理解しているわけがないから今のは愚問だった。
のんびりとした足取りでコーヒーを淹れているの背中を眺めていると、ガチャガチャと玄関の鍵が開く音が鳴り響く。
遅くなるとつい数分前には話していたが、まったく展開が違う。
京介くんも帰ってきたなら3人分かぁと、が呑気にお湯を継ぎ足している。
確かに美味しいコーヒーも飲みたいが、今はキッチンから戻ってきてほしい。
間男と鉢合わせしたみたいな展開になってしまう。
剣城は決して間男ではないが、教育には絶対に良くない。
健全な男子中学生が味わっていい屈辱ではない。
彼に失恋はまだ早すぎる。
「、剣城が」
「え、何か言った?」
「さん、玄関に男の靴が」
「あ、京介くんおかえり~」
「・・・お、おかえり」
「・・・誰ですか?」
「誰ってきど「の身内の者だ」確かに」
ゴーグルをつける間もなく、早足でリビングまで到達した剣城と目が合う。
誰ですかと言われた。
ほぼほぼ毎日顔を合わせる教え子に胡乱な視線を向けられた。
鬼道有人と認識されていない。
あれだけ素顔を見たがっていたはずなのに、念願の素顔が目の前にあるのに、剣城はまったく気付けていない。
ほっとしたような悲しいような、俺の素顔って何だろう。
鬼道はゴーグルをそっと椅子の隅に追いやると、こんにちはと微笑んだ。
今日はこのままの身内の青年で通そうと思う。
「さんのご家族の方ですか?」
「ああ、彼女とは子どもの頃からの付き合いだ」
「中学生時代のさんとも?」
「当然だ」
「さん、本当ですか?」
「うん、ていうかその人きど「、運ぶのを手伝おう」
キッチンに並んだ隙に、の耳元に口を寄せる。
今の俺は鬼道有人ではないと囁くと、がえっ嘘マジでと小さく叫ぶ。
には難しすぎる謎かけだったかもしれない。
鬼道はの手からトレイを奪うと言葉を続けた。
「剣城は俺を俺だと認識していない」
「そんなまさか、だって声は一緒じゃん」
「信じがたいが俺と鬼道有人は別人扱いされてるんだ。俺は経験があるからわかるんだ」
「苗字間違えてたこと、実はまだ根に持ってるって話?」
「違う! とにかく俺のことを俺とわかるように呼ぶのはやめてくれ。剣城のためだ」
「さん? どうしましたか?」
「ううん、なんでもない!」
怪訝な声を上げる剣城をとびきりの笑顔で誤魔化したに、わかったなと念押しする。
ならば戦術の意図を理解してくれる。
悔しいが、面倒見の良い彼女は剣城のためと言えば想像以上の力を発揮する。
他人を攻めることに特化しているように見えて、実のところは守ることが何よりも長けている隠れDFのだ。
きっと2人だけの秘密も守ってくれるに決まっている。
「さん、この人はさんとはどういう関係なんですか?」
「サッカーに詳しい身内だよ。めちゃくちゃ詳しいから私も昔からよく相談とかしてて、今もいろいろお世話になってる」
「へえ・・・。あの、中学生の頃のさんってどんな人でしたか?」
「今とあまり変わらない」
「昔からこんな性格だったんですね。じゃあ鬼道コーチは知っていますか? さんの夫を名乗っているサッカー選手なんですけど」
「・・・もちろん。とても優秀で男前だと聞いている」
「ふふふ」
「?」
「なななんでもないよ? ほーら京介くん私が言ったとおりでしょ。鬼道くんは妻目線以外で見てもかっこいいんだってば」
コーヒーカップを持ちながらが朗らかに笑う。
いつもは綺麗に笑うが、今日は特別嬉しそうに見える。
夫を褒められると妻も嬉しいのかもしれない。
お世辞とわからないなんておめでたい人だ、可愛らしい。
「さて・・・では俺はそろそろ。着替えはまた取りに来る」
「いいよいいよ、私持ってくから! 京介くん、私お見送りしてくるね」
乾燥機から取り出した上着を胸に抱いたが、やはりにっこりと微笑んで外に出る。
随分と仲睦まじい親戚だった。
並んで歩く距離も近く、普段からよく言葉を交わしているのか呼吸もぴったりだった。
と鬼道もこのくらい実は仲良しなのだろうか。
を手放したくないから子どもの特権を振りかざしているが、ほんの少しだけ余裕を見せた方が大人びていると感じてもらえるかもしれない。
素顔が見られなくても、見せてもらえなくても鬼道はにとっては大切な人だ。
好きな人にはいつだっていい気分でいてほしい。
「俺も鬼道邸に引っ越そうかな」
そうすればも鬼道も、ついでに自分もみんな丸く収まるはずだ。
剣城は男が座っていた場所へ視線を移した。
見覚えのあるゴーグルがちょこんと置かれていた。
「しまった、ゴーグルを置き忘れたままだ・・・」