リトマス試験紙の反乱
やっと隣を歩けるようになった。
引っ張り寄せて侍らせるのではなく、彼女自身の足取りで隣に並べるようになった。
サッカー選手としての人生を諦めようとしていた時に降臨した幼なじみは、紛れもなく女神だった。
道を失い彷徨っていた迷い船を岸まで導いてくれる、道を明るく照らす標だった。
フィディオは懐かしの大江戸国際空港に降り立つと、隣でやたらと大きな赤いスーツケースを引いているを顧みた。
「またここに戻って来れるなんて夢みたいだよ」
「ふっふー、そりゃあ大変だったもん。落ち込みフィーくんを元いたとこまで押し上げるの」
「ちゃん・・・、いや、コーチにしかできない荒療治だったよ。どこでそんなスパルタ習ったんだい?」
「んー・・・、昔取った杵柄?」
「そっか。・・・俺は今から、兄弟子たちと戦うんだね」
が言う『昔』がいつのことなのかわからないわけがない。
取り戻したくても決して埋めることのできなかった少女時代のの10年間に常に存在し続けた、もう1人のの幼なじみこそ、の色褪せることのない『昔』の弟子だ。
彼の名を出されずとも、ちらと存在を匂わされただけで胸がざわつく。
不動に対しての一過性の苛立ちとは遥かに違う、まるで前世からの因縁をも感じさせる黒い感情を覚えてしまう。
向こうがこちらをどれだけ意識しているのかは知らないが、少なくともフィディオにとって愛しくて尊敬すべきコーチの昔の弟子は相容れない顔だった。
「わかってるだろうけど、今回のはご招待の親善試合だから怪我とか作っちゃ駄目よ」
「うーん、約束はできないなあ」
「フィーくんっ」
「冗談だよ。俺だってそのくらいわかってる。でも甘く見ないでほしいなあ、俺の体はちゃん仕込みの怪我知らずだよ?」
俺の体がどれだけ丈夫にできてて疲れ知らずか、お医者さんよりもトレーナーよりもちゃんが一番よく知ってるでしょ?
にいと笑っての耳元で囁いてみると、の顔がぱっと赤くなる。
相変わらず感情表現がとてもわかりやすい子だ、可愛い。
フィディオはぎゅうとつねられた頬に涙目になりながらも、口元を緩ませずにはいられなかった。
「もうー、どうしてそういうこと言うの」
「だってほんとのことでしょ、ちゃんは俺のことなんでも知ってる」
「だからってもー、フィーくんやだ!」
嫌よ嫌よも好きのうちってちゃんのためにある日本の諺だよね。
それどういうこと、意地悪するフィーくんやーっ!
むうと眉根を寄せ大股で歩き始めたにぴたりと体を寄せて歩くフィディオの姿を、サッカー誌はばっちりと捉えていた。
試合前どころか、会場到着前から不機嫌になるのはやめていただきたい。
なぜ彼が不機嫌なのかは彼の手の中にある雑誌を見ればすぐにわかるが、本当にいい加減独り立ちしてもらいたい。
円堂はバスの隣の座席で不貞腐れている親友の横顔に、恐る恐る声をかけた。
「なあ・・・、そのくらい元々だったよな・・・?」
「何がだ」
「だからその、雑誌の中のフィディオと・・・?」
「空港で人目も気にせずいちゃついているのが元からだと? 俺はそんな育て方をしたことは一度もないし、されたこともない」
「そりゃを育てたのはお前じゃなくての親御さんだし、豪炎寺にしようと思ったこともないと思うよ。だって絡みのお前、スッゲーマジで容赦なく怖かったし」
「あれは甘やかしてもろくなことがないからな」
だから、そういうとこがに懐かれない原因なんだってなんで今になってもわかんないかな、こいつ。
円堂は口に出かかった禁句をすんでのところで飲み込むと、そうかなあと言葉を濁し豪炎寺の手の中の雑誌を取り上げた。
日本代表との親善試合に訪れたイタリアの強豪チームの選手たちが大江戸国際空港に到着した際の写真が掲載されている今号は、華やかなイタリアチームの特集らしい。
地に堕ちた星を天に戻した導きの女神と書かれている人物は、写真で見る限り間違いなくかつてのクラスメイトでチームメイトで友人の女性だ。
いかにも彼女好みのロマンチックな書かれ方だが、そう書かれても遜色ないだけの活躍を現には続けてきた。
フィディオという押しも押されぬ強力なバックアップがバックアップとして機能しなくなってから、むしろは輝きを増した。
単身日本を飛び出しイタリアに武者修行に出た不動も、と上手く利用し合った結果今やプロリーグに籍を置くチームのスタメンだ。
昔はサッカーに惰性70パーセントで向き合っていたが、いつの間にやらサッカー王国イタリアで注目を浴びる新星コーチとして名を馳せている。
いつからがサッカーに真面目に向き合うようになったのか、円堂はおそらくはフィディオでも豪炎寺でもないきっかけを与えた人物が気になっていた。
「が一番変わった気がするよ、俺」
「元から気分屋だからな」
「そういう意味じゃなくて、うーん・・・。豪炎寺にはわかんないのか?」
「何だそれは。円堂にわかって俺にわからないなんてあるものか」
「そんなことないよ。近くにいすぎてわかんないってあるじゃん。俺の目から見たら夕香ちゃん相当大きくなったぞ」
「夕香をどんな目で見ている。変な目で見るんじゃない」
「変わんないなあ豪炎寺は」
と直接相対するのはこれからだが、きっとその時になっても豪炎寺はの変化に気付かないのだろう。
気付くことを無意識のうちに拒絶しているのかもしれない。
豪炎寺にとっての『』は中学2年生で止まったままなのだ。
それが果たして豪炎寺にとっていいことなのかそうでないのか、円堂にはわからなかったが。
「でも、こうやって見てるとほーんと2人ってお似合いだよなあ。美男美女ってこういうこと言うんだって思う」
「俺は、あの円堂の口から美男美女なんて言葉が出てきたことに今日一番驚いている」
「えー、俺前からが可愛いとは思ってたよ。顔よりも中身のインパクトの方が強かったけど」
俺今でも覚えてるよ、が転校してきた時のこと。
懐かしそうに目を細め語る親友の顔から、豪炎寺はふいと目を逸らした。
誰もが変化をさも当たり前のように受け入れていることが不思議で、ほんの少しだけ羨ましかった。
「・・・俺にはわからないし見えない。・・・・・・あいつ、が」
幼なじみは実は夢の産物だったのかもしれない。
豪炎寺は幼なじみの名を呼ぼうとして、どう呼んでいたのか思い出せず苦笑いを浮かべた。
10年後の2年って、まるで20年だ