ペンギンさんが見てる
選手も監督もマネージャーも眠っている、あるいはベッドに入っている深夜。
不動とは、食堂で夜食をつまむでもなくひたすら戦っていた。
の手元には真っ白な問題集と新品同然の、皺も折り目もひとつとして入っていない教科書が置かれている。
あっきー疲れたとがぼやくと、不動は俺の方が疲れると切り返した。
「ちゃん、今度こそドS鬼畜の幼なじみクンに習えよ」
「なぁんであっきーいるのに修也んとこ行かなきゃなんないわけ。わっけわかんない」
「意味わかんねぇのは俺の方だよ。ちょっと教えてって言われてサッカーのことかと思ったら理科? あんた馬鹿も大概にしろよ」
「サッカーならいいの? じゃあサッカーにする。ばいばい理科、大っ嫌い」
「そっちはそっちで勉強しろよ」
「う」
理科セットを片付け代わりにサッカー用らしきノートを取り出したは、早速ここがわからないと不動に教えを乞うた。
そうだ、初めからサッカーの話をすればいいのだ。
がサッカーに詳しくなればなるだけお守りの役目は縮小され、やがてはベンチ生活からも解放してもらえる。
試合中にあれは何、これはどういうことという質問が飛んで来なくなれば、もっときちんとアップに励むことができる。
不動にとってベンチのは、疫病神と言うより他になかった。
どんなに目が悪くなっても、あれを天使や女神だとは譬えられない。
「ここさあ、さっぱり意味わかんないんだけど」
「・・・ちゃん、あんた何の勉強してんの? 英語? サッカー?」
「サッカー? 通販で買い間違った監督なるにはガイドの本が全部英語でさあ、くっついてた練習問題ももちろん英語でもう無理」
「その本、買い直そうか。ちゃん、将来マジで監督なりたいわけ?」
「そんなわけないじゃん。私は大きくなったら誰もが憧れる超素敵なお姉さんになって、イケメン振り向かせるって決めてんだ!」
だったら尚更、この本はには必要ないだろう。
不動はどこからツッコミを入れればいいのかわからなくなり、両手で額を覆った。
頭隠せてないよと下らないボケだけはデフォルトのようにぶちかますに、やや傷ついた心でうるさいと応酬する。
疲れる。眠気とは別次元の疲れを感じる。
早くから解放されて部屋に戻りたい。
いっそ気絶させてこの場から逃げ出そうかと不穏な考えがちらつき始めた頃、はふわぁと欠伸した。
「むー、頭使うと眠たぁい・・・」
「いつどこでどのくらい頭使ったのか教えてくれる、ちゃん?」
「使ってるよー。あっきーとここ来た時からずっと使ってるよー」
「理科を諦め英語を諦めたようにしか見えなかったんだけど」
「それでも使うの! 文字見ただけで使うの!」
「・・・とにかく、寝るなら部屋行って寝ろ。ここじゃ風邪引くからな。引いても知らねぇからな」
よろりと立ち上がったに荷物を手渡し、一緒に食堂を出る。
部屋とは真逆の方向へと歩き始めたの背中に、部屋はこっちだろと投げかける。
はくるりと振り返ると、勉強道具ではない方の袋を持ち上げてみせた。
「今からお風呂行くの。あっ、知ったからって覗いちゃ駄目だからね! 見たらアイアンロッドだからね!」
「見ねぇよ! ちゃんの貧相な体なんざ見ても面白くもなんともねぇし!」
「ひっど! そんなことないもん、私脱いだらすごいんです体型だもん! そもそもこの修也のジャージーが私の魅惑のスタイルを・・・」
「無実のジャージーに罪をひっ被せるな! ああもうほら行け、風呂で寝るなよ!」
「寝ませんんんんー!」
あっきーの馬鹿、変態、いじわるとぶうぶう文句を垂れるに背を向け、不動は改めて自室に向かって歩き始めた。
今日もやっと解放される。
昨日も一昨日も同じことを思ったが、いったいいつになったらこの地獄から抜け出せるのだろう。
不動はに負けないくらい大きな欠伸を零すと、せめて夢の中くらいは平穏でいたいと強く願うのだった。
実家の浴室ほど豪華ではないが、広さだけならいい勝負かもしれない。
鬼道はお気に入りのペンギンを浮かせた湯船で一人風呂を満喫していた。
いつもは円堂たちイレブンとわいわいがやがや賑々しく入っているが、1人というのも悪くない。
たまには監督と長話をしてみるものだ。
鬼道は、無口な監督と30分間という長時間に渡るコミュニケーションが図れたことに奇跡を感じていた。
円堂たちとの30分は短いが、久遠との30分はとてつもない悠久の歴史を彷彿とさせる。
何を話していたかといったらうち15分強はのことだった気がしないでもないが、それでも鬼道は満足だった。
「お、ふ、ろ! お、ふ、ろ!」
両手両足をこれでもかというくらいまで伸ばし湯船の中でのんびりと寛いでいると、不意にガラガラと浴室の戸が開く音が聞こえてきた。
こんな夜更けにいったい誰が。
まだ入り損ねていた奴がいたのか。
ああ、もしかしたら監督かもしれない。
久遠ならば気にすることもないと変わらず湯船に浸かっていた鬼道の耳に、聞き間違えようのない愛しい少女の鼻歌が飛び込んできた。
「スタンダッ、スタンダッ、立ち上がリーヨ!」
「!?」
「・・・んん? 今声が聞こえたような?」
まずい、声が聞こえたのかもしれない。
しかしここは風呂だ。
逃げ場もなければ隠れ場所もない。
誰がいるのかなあと危機感のないのんびりとした声でが呟き、ひょこりと湯船へと視線を向ける。
鬼道は迷うことなく湯船に全身を沈めた。
「んー・・・、いないか! だよねえ、だってこんな遅くだもんねえ」
異様に波立つ水面は見えていなかったのか気にしなかったのか、はへにゃんと笑うとシャワー台へと向かった。
風丸くんとお揃いのシャンプー使ってみーようっとなどと嬉しげに独り言を続けるに、水の中の鬼道は頬を緩めた。
昔から気付いてはいたが、可愛すぎるだろうあの子は。
歌ったかと思えば独り言を呟き、かと思ったらまた歌いだして、こちらを萌え殺すつもりか。
鬼道は湯船の隅に移動すると、音を立てないようにそろりと顔を上げた。
シャワーを使っているためか、こちらの水音は聞こえなかったらしい。
1番と2番の歌詞が混じった歌を楽しそうに歌い続けている。
本人はおそらく、歌詞などさして気にしていないのだろう。
鬼道自身も今日ばかりは声はほとんど気にしていなかった。
「ふおー、風丸くんのやっぱりいい匂いだ! えへへ、明日びっくりさせちゃお!」
「・・・俺の石鹸も近くにあるだろうから、それを使ってくれていいんだぞ・・・」
「修也のはちょっと合わなかったもんなあ。やっぱ髪質違うから当たり前か」
「今度はぜひ俺のを使ってくれ・・・!」
「よし、シャンプーおしまいお風呂入ろ! 1人っていいよね、冬花ちゃんのセクハラないから超安心」
あの子後ろから抱きついてくるもんなあとぼやきながら、が湯船へと近付いてくる。
の視界ギリギリに入るまで顔出して、そして、ちらとでもいいから裸身を拝んでから潜りたい。
ああ、どうしてゴーグルを脱衣所に置いてきてしまったのだ。
ゴーグルがあれば水中観察できたのに。
というよりも、なぜは脱衣所にこちらの服があると気付かなかったのだろうか。
そこまで頓着したくないくらいに風呂に入りたかったのだろうか。
それともまさか、途中のあれこれをすっ飛ばしていきなり裸のお付き合いを所望していた?
鬼道は湯船の隅での登場を待った。
湯気の向こうからぼんやりと白い体が浮かび上がってくる。
意外とあるとか細いとか下を見損ねたとか、様々な感想とビジョンが鬼道の脳内に一斉にインプットされ脳内サーバーが熱暴走する。
処理能力を遥かに超えた椿事に、鬼道は水中に沈没した。
「あっれー? ペンギンさん浮いてる、可愛い!」
皇帝ペンギンさんかなあと、湯船に浮かぶペンギンをがちょんとつつく。
風呂の備品にしては見たことがないが、誰か、おそらくは鬼道の忘れ物だろうか。
真面目でしっかり者の鬼道も、風呂に入れば気分が緩んでしまうのだろう。
明日にでも渡しておこうと決め、あちらこちらに浮いている5体のペンギンを回収すべく湯船の中を移動する。
4対を集め、隅に浮いている最後の1体を手中に収めるべく手を伸ばす。
しんなりとしたお湯ではない何かを一緒につかんだ気がして、一度ペンギンから手を離す。
今触れたのは何だったのだろうか。
今度はペンギンだけを間違いなくつかもうと手を伸ばしたの目の前に、うつ伏せになったままぴくりともしない鬼道が浮かび上がってきた。
「・・・へっ!?」
「・・・・・・」
「誰これ・・・。えっ、円堂くん鬼道くんあっきー・・・じゃないか。えっ、どっち!?」
顔をつかみゆっくりと持ち上げると、ぐったりとして目を閉じている鬼道だと判明する。
ああ、ペンギンさんは忘れ物ではなかったのか。
は、まずペンギンの事を考えてしまった己がぼやけた思考に珍しくセルフツッコミを入れた。
慌てて鬼道の肩を叩くが、何の反応もない。
「えっ、鬼道くん起きて、やっ、えっ、いつからいたの!? 鬼道くん、鬼道くんってば!」
上せたのか溺れたのかわからないが、何にしてもこの状態は危険すぎる。
とりあえず鬼道を介抱しなければ。
は鬼道のだらりと伸びた両腕を胸に抱くと、彼の体を湯船の縁へと引っ張り始めた。
確実に夕香以上の体重がある鬼道を抱えあげ、湯から救出することはさすがにできない。
は鬼道の顔と腕だけ湯から出すと、ぱたぱたと脱衣所へ向かった。
早く助けなければ鬼道が水死してしまう。
中途半端な状態で入浴を切り上げたため消化不良で、寝巻きに着替える気にはならない。
はスカートを履きジャージーを羽織ると脱衣所を飛び出した。
この時間まだ起きている可能性があるのは彼しかいない。
は迷わずかの人の部屋の前に立つと、こんこんこんこんとモールス信号並みの早業でドアをノックした。
「あっきーあっきーあっきーあっきー」
「・・・寝てます」
「あっきーあっきーあっきーあっ・・・くしゅん」
「もう何!? ちゃん今度はな・・・んて格好してんだちゃん!?」
意地でもドアを開けないと決め込んでいたはずが、くしゃみを聞き放っておけなくてドアを開けてやる。
遅くまで起きてるから風邪引くんだよと生姜湯を作ってやる心づもりで出迎えた不動は、ドアの前で佇むしどけない姿のを見て悶絶した。
なに、なんでこの子裸にそのままジャージー羽織ってんの。
しかも、なんで前ファスナー閉めてないの。
スカートに素足って何。どうして髪濡れてんの。
俺、ちゃんのどこ見て喋ればいいの?
脳内では次々に生成されるツッコミワードを口に出すこともできず、不動は固まっていた。
不動の心中など当然知る由もないは、一歩踏み出すと不動をじっと見上げた。
「あっきー大変一大事」
「待ってちゃん、俺が悪かった。もう貧相とかまな板とか言わないから前閉めて」
「そんなこといいから、とにかく大変超大変!」
「いや、俺にとっちゃ今このちゃん以上に大変で一大事なことないって。保護者代理からのお願い、マジでもう少し自分大事にしようちゃん」
「やだやだ見捨てないであっきー!」
「ちゃん、俺男なの! 頼むからファスナー上げてくんねぇかな! それともなんだ、遂に幼なじみクンか鬼道クンか監督の娘に襲われた!? 俺が許す、殺ってこい!」
「ちーがーうけど、ちょっとそう!」
「そうなんだ!?」
「鬼道くんが大変、お風呂で鬼道くんバターン!」
あくまでも自らの格好には気を回さないに観念し、不動は箪笥からバスタオルを取り出した。
直視できないが覗き込みたくなる上半身にぐるぐるとタオルを巻きつけ、際どい何かが見えなくなりようやく人心地つく。
はバスタオルの中から腕を出し不動をつかむと、ぐいぐいと浴室へと引っ張り始めた。
「鬼道くんがお風呂の中で浮いてて、息してないの!」
「鬼道クンいるって知ってて入ったわけ、ちゃん。そりゃ鬼道クン卒倒するぜ」
「ううん知らなかった。やだぁ、いるってわかってたらあんなに歌わなかった」
「反省するとこそこじゃないから。しかし、はあー・・・・・・、見た?」
「へ? 見たって何を?」
「何って鬼道クンのあれ?」
「みみみ見てない!」
「へぇ? ほんとに? 見えちゃったんじゃねぇの?」
「見てないもん! わぁんあっきーの変態、頭もげちゃえ!」
「せめて髪にしようかちゃん」
浴室の入り口から罵詈雑言を浴びせるに訂正を入れ、不動は湯船で伸びている鬼道を見つめた。
なぜ自分が介抱してやらなければならないのだろうか。
嫌いな人物を助けてやるなど胸糞悪いったらありゃしない。
いっそこのままもう一度湯の中に沈めてやろうかとも思ってしまう。
鬼道がここにいなければ、今頃ぐっすりと体を休めることができるのだ。
不動はをちらりと顧みた。
不安そうな顔でこちらを見つめている。
仕方がない、今日だけは助けてやるか。
不動は鬼道を湯船から出すと、そのままが待つ入り口へと引きずり始めた。
引きずっている途中で起きてほしいという願いを込め、やや強引に床を滑らせる。
「ちゃんタオル取って」
「あ、これ?」
「そっちじゃなくて、ほんとちゃん自分大事にして! ・・・ほら、そこの棚にあるやつ」
「ああこっち。はい」
手渡されたタオルを受け取り、ぞんざいな手つきで拭いてやる。
息はしているようなので、もしかしたらただ寝ているだけかもしれない。
不動は鬼道の頭をがつんと殴った。
殴っちゃ駄目だよ馬鹿になると非難の声を上げるに、じゃああんたは何百回殴られたんだと尋ねたくなる。
はタオルをかけられ眠る鬼道の頭を膝の上に乗せると、ゆさゆさと鬼道の体を揺さぶった。
「鬼道くん鬼道くん、そんなに長くお風呂いたの?」
「大方ちゃん見てぶっ倒れたんだろ」
「そうなの? でも修也とも前似たようなことあったけど、修也なんともなかったよ」
「今日だけでもう3回くらい言ってる気がするけど、ちゃん自分可愛いと思ってんならもうちょっと自分大事にしようか。
はっ、まあ鬼道クンお子様だから刺激強すぎたんじゃねぇの?」
「なるほど。そういや鬼道くん割と打たれ弱いもんね」
「鬼道クンフォローするつもりはねぇけど、男に弱いとか言ってやるなよ」
ぺちゃくちゃと話していた声で気付いたのか、鬼道がうっと呻き声を上げる。
なんだかとても頭が痛いが、ここはどこだろう。
うっすらと目を開けると、視界にと不動が飛び込んでくる。
ああ、また2人で仲良く話している。
不動、お前はいったい何様のつもりなのだ。
せっかくと2人で風呂に入っていたというのに、どうしてお前がここにいる。
風呂と考え、鬼道はばっと体を起こした。
頭を上げた直後がつんと何かにぶつかり、頭上であうあう舌噛んだ千切れると弱々しく訴える声が響く。
鬼道は頭頂部に痛みを覚え、再び体を倒した。
「あーもう何やってんだほんと鬼道クン! ほらちゃん、舌見せて」
「む」
「ああ大丈夫切れてない痛くない、泣き言言わない!」
「・・・・・・?」
「はう、鬼道くん酷い・・・」
「!? す、すまない俺は・・・! ほ、ほんの出来心だったんだ、信じてくれ!」
「出来心で・・・痛い・・・。いじわるする人やだ・・・」
「本当にすまない! ・・・責任はきちんと取る、8年くらい経ったら取らせてもらう」
「・・・話が噛み合わねぇ奴・・・」
口元を押さえ嗚咽か何かを堪えているの前に座り直そうと、鬼道は体を起こした。
ちょっと待てと部外者の不動に制止を求められ、不愉快な気持ちでいっぱいになりながらも何だと答える。
不動は黙って鬼道の体を指差した。
指の動きに合わせ、鬼道も自身の体へと視線を移す。
裸の王様のコスプレ真っ最中だった現実に戦慄し、頭の中が真っ白になった。
「・・・ちゃん、今日もう休め」
「でも、まだ入り足りないんだけど」
「朝シャワーでも浴びてこい。後は俺がなんとかしとくから」
「仕方ない・・・。あ、じゃあこれ不動くん、なんかよくわかんないけどありがと」
「それも明日以降でいいから! 脱ぐなよそこで、そのタオル外すなよ!」
を一足先に追い出すと、不動ものろりと立ち上がった。
もう付き合っていられない。
今何時だと思っているのだ。
おやすみ鬼道クンとだけ言い残し脱衣所を去った不動の耳に、鬼道の言葉にならない悲痛な叫びが聞こえてくる。
昏倒したり寝たり叫んだりと忙しい男だ。
忙しくするのは構わないが、他人を巻き込んでほしくない。
巻き込みたくない男を事件に引きずり込むな。
不動はがっつりと削られた睡眠時間を少しでも長く確保するため、早足で自室へと戻っていった。
リカちゃん人形に本当にその格好させてみて、見えるかどうか確認したりしないでね