犬に与えてはいけません




 しまった、忘れ物をした。
お泊まりには欠かせない、宿泊先には絶対にないであろう大切なものを忘れてしまった。
常駐させているお泊まりグッズの中身をひっくり返しても一個も出てこない。
困った、どうしようか。
今から買いに行ってもいいが、夜遅くに薬局まで出かけるのは寒いし暗いし、なによりも面倒だ。
は脱衣所から出るとリビングで寛ぐ豪炎寺にないよねえと尋ねた。
何がと言わずともないと即答され、あまりにも聞く気のない答え方に憤慨するよりも先に落胆する。
当たり前だ、豪炎寺が持っているはずがない。
は諦めて脱衣所へ戻ると、洗面台の下の棚を開けた。
ないとはわかっているが、実はさりげなく気が利くようになっていた豪炎寺が用意してくれていたなんて奇跡も10年に一度の周期で訪れるかもしれない。
なんというミラクル発生率の低さだ。
皆既月食の方がまだコンスタントに見られる気がする。
日頃ソファの下を捜索しているの手が、ソファよりも遥かに見通しの利く攻略難易度が極めて低い洗面台の棚へと伸びる。
あった。意外にもあっさりと見つかった。
なにやらごちゃごちゃと袋に書かれているが、“Bath salts”と書かれているので問題はあるまい。
豪炎寺家のものはほとんどがちゃんのもの。
好きに使っていいからねと家主に言われているので借りても特に文句は言われないはずだ。
は入浴剤を手に取ると浴槽へとぶちまけた。
ほんのりと甘い香りが漂ってくるが、何の香りだろうか。
できればフローラルな香りがシャンプーの匂いとも合うので好きなのだが、豪炎寺が用意したかもしれないそれに多大な期待は抱かない方が良さそうだ。
は湯船につかるとぐーんと体を伸ばした。
お腹がいっぱいになるいい匂いだ。
説明をろくに見ずに突っ込んだが、食べ物系の入浴剤だったのだろう。
私がまるごと食べ物になったみたいでちょっとやーらしー。
はやたらと甘ったるい匂いを体に染み込ませると、入浴後のデザートプリンを食べるべく風呂から出た。






























 手の中のプリンよりも、食べているの方がデザートに見える。
豪炎寺は、どこでつけてきたのかもわからない甘い匂いを全身から発し隣でプリンを貪っているを見つめ首を傾げた。
入浴前にがリビングにやって来た時はまだ、はいつものの匂いだった。
入浴剤など我が家にはないはずだから今日のは入浴後も余計なフローラルな香りは漂わせないはずなのだが、なぜだか今のからはとてつもなく甘くて美味しそうな匂いがする。
匂うと思わず呟くと、悪臭によるクレームと受け取ったのかがじとりとこちらを睨みつけた。




「それは修也の汗臭さでしょ」
「違う。、何つけた?」
「なぁんにも? 洗面台の下に入ってた入浴剤勝手に使っただけだけど、やっぱこれ匂う?」
「すごく甘い匂いがする。何だ・・・?」
「うわっ、あんまり近寄んないでよ食べにくい」





 するするとにじり寄り匂いを嗅いでくる豪炎寺から逃れるべく、ソファの端へと体をスライドさせる。
匂いフェチではなかったはずなのだが、今日の豪炎寺はやけにしつこい。
嫌がって離れようとしているのに尚も迫って来るとは、これではゆっくりのんびりおやつを楽しめそうにない。
はプリンをテーブルの上に置くと、迫り来る豪炎寺を突き返すべく左手を横に払った。
撃退するどころか逆に左手をそのままつかまれ、やっぱり匂いがすると言われはひぃと小さく悲鳴を上げた。





「怖い、修也何その探究心。私はサッカーボールじゃないんだけど」
「当たり前だろう、は人間だ。でも人間はこんな匂いはさせない」
「何よう、それじゃ私が食べ物みたいじゃん」
「だから何の食べ物か気になってこうやって嗅いでるんだろう。動くなよ
「ちょちょちょちょちょ、何してんの修也どこ嗅いでっ、ああもうくすぐったい!」
「だから動くなって言ってるだろう!」





 外気に触れ匂いが消えやすい腕よりも晒されにくい部位で確かめたいのか、ぐっと体を近付けた豪炎寺が首の辺りへ顔を寄せる。
既に入浴を済ませている豪炎寺の頭は尖ってはいないが、そのおかげで散らばっている髪が肌をくすぐる。
髪のあまりにも絶妙なタッチに耐えきれず身を捩ろうとしたは、すっかり匂いに執着してしまった豪炎寺に両肩を押さえ込まれはっとした。
湯冷めしてしまうのではないかという程に、全身から猛烈な勢いで血の気と熱が引いていく。
私がまるごと食べ物みたい?
恐る恐る豪炎寺に尋ねると、顔色ひとつ変えることなくそうだなと返される。
食べ物は食べられるために存在するものだ。
食われる。
は匂い以外頭からすっかり抜け落ちてしまったらしい豪炎寺を見上げ、人生の終焉を覚悟した。


































 どうしよう、完全に部屋から出るタイミングを失ってしまった。
だから来たくなかったのだ、週末夫婦の愛の巣になど。
万年熟年夫婦の落ち着きなどどこにもないではないか。
今目の前で繰り広げられているのは、年がら年中熱々の新婚バカップルの愛のときめきだ。
どうしよう、なんだかんだでこういう爛れたことやってんじゃないかなとは下世話上等ちらちら思ってたけど、まさかそれを目の前で見せつけられるとどうすればいいのかわからなくなってくる。
だって俺自慢じゃないけど彼女とかいないし、エロ本に興味持つようになったのも超最近で双葉も出てない若葉マーカーだからさ!
半田は宛がわれた和室の襖の間からリビングのクラスメイト2人を見つめ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼らは絶対にこちらの存在を忘れている。
連れてきた張本人も忘れている。
なぜここに自分はいるのだろうか。
半田は自身の存在がひどく不必要なものに思えてきて涙目になった。
畜生、いっそほんとに俺の存在なかったことにして俺も知らんぷりしておきたいけど、襖閉じらんねぇんだよ。
泣きたい。
存在を知らしめるためにも大声でわんわん泣きたい。
泣いてもいいかな、なんかたぶん、そうでもしないとこのまま食われちゃいそうだし。
半田はすっくと立ち上がると勢い良く襖を開け放った。
突然の物音にがわああと声を上げ、ついでごつんと鈍い音が聞こえてくる。
痛いやめろ急に起き上がるなと額を押さえ呻いた豪炎寺が、むくりと体を起こす。
げ、起きて早々俺と目が合った。
目が怖い、目力倍増で怖すぎる。
豪炎寺はやや赤くなった額にかかった前髪をかき上げると、なんだ半田かと呟いた。
俺だよ☆などと受け流せるだけの心の余裕は持ち合わせていないので、おおおうとどもった返答を返す。
なぜだろう、道徳倫理上よろしくないことをしていたのは明らかに豪炎寺の方なのに、邪魔をしたこちらに非があるように思えてくる。
KYは鬼道有人の略というのはサッカー部の常識なのだが、本当は『空気読め』の略が正解なのではないだろうか。





「あああのさ、その・・・お前らいつもそういうことやってんの・・・?」
「そういうことって何だ」
「いやだから、その・・・」
「やるわけないだろう。気味の悪い誤解をするな、迷惑だ」
「じゃあお前らも誤解させるようなことすんなよ・・・。・・・てか、違うならなんでああなった?」
「半田も嗅いでみるか? の匂い」
「ここにきてまだ匂いの話か!? ほんとどれだけ匂いにうるさいんだよ・・・あ、なんかすげーいい匂い」





 何これチョコとかそこらへん?
ここがいいとアドバイスを受け顔を近付ける半田に、はもうやだお風呂入り直すと叫んだ。






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