帰巣本能の錯乱




 もしも本当にこの世界に勝利の女神がいて、それがとある世間では女神と呼ばれている彼女のことを指すのであれば、間違いなく女神はこちらに微笑むことはないだろう。
彼女が自分に向ける表情は昔から7割方むうと眉を吊り上げたしかめ面だった。
試合に勝ってもなお内容が悪ければクレームばかりで、よくあれでモチベーションを保っていられたと思う。
フィディオたちにもは同じような指導をしているのだろうか。
と別れて早6,7年。
サッカー王国イタリアでコーチだか監督だかマネージャーだかの修行をしたと思われるは、きっと中学生時代の当たってはいるが支離滅裂だったゲームメークよりも
かなり理解しやすくなった戦術伝授法を学んだはずだ。
元がイタリア生まれなので言葉にも不自由しないだろうし、日本語が破滅的に下手だったにとっては日本よりもイタリアが生活に向いているに違いない。
そう心の中で結論をつけていくたびに、が遠くへ行ってしまったようで寂しくなる。
いるだけ喧しくていっそいない方が静かで楽かもしれないなどと思っていた昔が懐かしく、そして信じられない。
隣の芝生が青いって本当だったんだな。
豪炎寺はそうぼそりと呟くと、笑顔でハイタッチを交わしているイタリアベンチを見やり小さく息を吐いた。





「すごいじゃーんフィーくん超かっこいい!」
「ありがとう! ちゃんが見ててくれたおかげだよ」
「やだぁフィーくんってばそれは言われなくてもわかってるって! よーし今夜は祝杯よ!」
「いいね。でもちゃんはお酒あんまり強くないしここは日本だから、程々にしとこうね」
「・・・うん!」





 羨ましくなんかない。
いや、少し前まではほんの少しだけ羨ましかったが、羨ましさはすぐに引っ込んだ。
会場内だというのにがちゃがちゃわいわいとこの後の祝賀会の話などふざけるにもほどがある。
フィディオもフィディオだ。
いかに試合終了後とはいえ、神聖なるサッカーグラウンド上でべたべたといちゃつきだらしない顔をするな。
イタリアの白い流星が聞いて呆れる。
燃え尽きるのではなく、めろめろに溶かされているではないか。





「あの豪炎寺、仕方ないよ、その・・・」
「円堂、俺はこれから今まで以上に猛特訓する。そして、次に戦う時はあいつらにああいうことをさせる余裕を絶対に与えない」
「すげえ気合いで俺もお前と同感だけどさ、お前のそのやる気出したきっかけは何だ?」
「もちろん決まってるだろう、あれだ」
「うん悪い豪炎寺。俺、お前の言う『あれ』がどっちだかいまいちわかんないや」




 そこだけはぼかさず『敗戦』だと言ってほしかった。
言葉足らずな豪炎寺に言葉を求めるのは厳しい注文だとわかっているが、それでもはっきりと言ってほしかった。




(・・・ま、に苛ついたんだろうな・・・)




 とは半年足らずのクラスメイトだったが、豪炎寺の世界がを中心に動いていたことだけは身をもって知っている。
円堂は大股でフィールドから去っていく豪炎寺を小走りで追いかけた。











































 かんぱーいと楽しげで明るい声が聞こえる。
夕香の声にしては少し大人びていて、フクの声にしては華やかすぎる。
夕香に年上の友人がいるとは聞いていないし、父はいったいどんな客人はたまた愛人を連れ込んでいるのだ。
玄関に恥じらいや謙虚さなしにどーんとど真ん中に置かれている赤い靴をぞんざいに隅へ追いやった豪炎寺は、とびきり無愛想な顔でリビングの扉を開いた。
おかえりお兄ちゃん、おかえりなさい修也さん、おかえり修也ー。
三者三様のおかえりコールを聞いた豪炎寺はむすっとしたままただいまと答えた後、1つ多かった『おかえり』に首を傾げた。
どうしたの修也、まさかここでフリーズするくらいに筋肉痛?
およそ高等教育を受けたとは思えない滅茶苦茶な問いかけに、豪炎寺は間髪入れず違うと反論した。





「筋肉痛になるような柔な体はしていない」
「ですよねー。見た感じいい肉ついて鍛えられてるみたいだし、んー、目つきは相変わらずってかますます悪くなったけど目つき以外は見た目良くなってる」
「会っていきなり何て言い草だ」
「いきなりじゃないでしょ。あれだけじとーって試合でこっち見てたくせに修也ってば今もまーだむっつりさんなんだあー」
「それ以上言うと怒るぞ」
「もう怒ってんじゃーん」
、そこにすわ・・・・・・、え、?」
「うん、私。あれ? もしかして今更気付いたの?」





 やだあ修也体ばっか鍛えて頭の体操ほったらかしにしてたからボケ始まったんじゃない?
減るどころかどんどん増え、そして悪化していった幼なじみの支離滅裂な罵詈雑言に、豪炎寺はマンションの隣室に迷惑をかけないギリギリの声量でと叱り飛ばした。
訊きたいことも山ほどあるが、何よりもまずやらねばならないのはの日本に来てからの数多の発言に対する説教だ。
どうせイタリアでは周囲はこれでもかというくらいに甘やかしてきただろうから、誰もを『叱り』『咎め』『窘める』といった躾をしてこなかったのだろう。
いくつになっても手のかかる子だ、騒々しい。
豪炎寺はひとしきりに説教すると、目の前でしゅんとするどころかどこ吹く風でデザートのリンゴに手を伸ばしているを見やりため息をついた。





「・・・どうしてここにいるんだ」
「ここが修也の家だからでしょー。はいこれお土産」
「チームと一緒にいなくていいのかって訊いてるんだ」
「そりゃいた方がいいんだろうけど本当にいるなら呼び出しきてるだろうし、呼び出しないってことはそんなもんでしょ。今日は祝杯挙げに来てるんだからほら、修也もかんぱーい!
「・・・俺は負けたんだが」




 お土産として渡されたはずのワインボトルを勝手に開けてグラスに注ぎ、飲み干すには何を言えばいいのかわからない。
何からどう言えば大人しく、そしてまともになってくれるのかさっぱり見当がつかない。
豪炎寺は渋々ソファーに腰を下ろすと、のグラスにかつんと合わせお土産を口に含んだ。
敗北の酒はかなり苦かった。





「んー、やっぱここ落ち着くわー。ねぇねぇ、こっちいる間ここにお邪魔してていい?」
「わーお姉ちゃんいてくれるのー!? やったぁ、良かったねお兄ちゃん!」
「旦那様もお喜びになるでしょう。お部屋の支度をしてきますね」
「待ってくれ夕香、フクさん。俺はまだ何とも言ってない」
「えーいいでしょお兄ちゃーん。ほんとは嬉しいくせにー」
「そうよそうよ、嬉しいくせにー」
が言うな。・・・・・・フィディオのところに戻らなくていいのか?」
「ん、あーフィーくん? 大丈夫なんじゃない? あっちはあっちでいろいろ業界のお偉いさんの相手とかインタビューとか控えてそうだし」




 フィーくん有名人でしかもイケメンだからねえふふふと笑いながら話すの顔はどこか少しぎこちなくて、豪炎寺はグラスをテーブルに戻した。
を盲目的なまでに愛し甘やかしているフィディオが、自身の忙しさにかまけを放ったらかしにするとは思えない。
だって尽くされることの方が好きだとずっと言い続けていたし、今の中途半端さはの理想ではない気がする。
ましてやここは日本だ。
自惚れているつもりではないが、フィディオは日本には日本の幼なじみがいるということももちろんわかっているはずだ。
実は2人はあまり上手くいっていないのだろうか。
だからここに転がり込んできたのだろうか。
豪炎寺はこれまたお土産のお菓子を勝手に開け食べ始めたの名を呼ぶと、大丈夫かと尋ねた。





「フィディオと上手くいってないのか?」
「上手い下手って何が?」
「あいつと付き合ってるんじゃないのか? すごく仲良さそうじゃないか」
「仲良しなのは元から。付き合ってるかそうでないかっていったらそうねえ・・・。修也の考える『付き合う』ってのが何言うのかわかんないけど、恋愛ではないかなあ」
「そうなのか?」
「フィーくんがどう思ってるかはわかんないよ? でもそうねえ・・・、たまぁに思うのよね。フィーくんが私に優しくしてくれるたびに、なぁんか違うなって」





 なんでもかんでもやってくれるしセッティングしてくれるのありがたいしそういうとこフィーくんほんと超かっこいいけど、それってほんとに私にとっていいことなのかなあ。
別に私、そこまでちやほやされなくても生きてけると思うんだけどなあ。
お姫様扱いも度が過ぎると困ったものねとお姫様扱いなど一度もしたことのない甲斐性なしの幼なじみの前でぽそんと呟いたに、豪炎寺はなんとなく申し訳ない気分になった。






「贅沢な悩みだな」「でしょー。私ってほーんと罪な女」




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