濡れた翼にドライヤー




 時間の流れが違う、まるで異世界にいるようだ。
はいつ終わるともしれない長く緩やかな、何にも追われないイタリアの夏をベランダからジェラート片手に見下ろしていた。
日本にいた頃は毎日宿題に追われサッカーに行くぞと幼なじみにせっつかれくそ暑い中外を引きずり回されていたのに、イタリアの休日はとても穏やかだ。
サッカー観に行かないと誘われることはあるが、イタリアの幼なじみは決して強引には誘わない。
当たり前のことだが誘う相手の都合が第一だと考えているので、素直に諾と言いやすい。
イタリアのサッカーは古くから伝統的な守備陣形カテナチオを得意としていたが、近年は攻撃的な布陣も多用するようになったという。
イタリアを離れていた期間が長かったため今と昔を比べることは簡単にできないが、ゲームメーカーとしても抜群の才を持つフィディオが説明してくれたのでそうなのだろう。
フィディオはとても優しい。
こんなに私を甘やかしてくれて大丈夫と思わず訊いてしまいたくなるほどに甘く、優しく包み込んでくれる。
イタリア男はもっと浮気性なのかと思っていたが、フィディオは例外らしい。
はジェラートをべろんと舐めると、向かいのベランダへフィーくんと呼びかけた。
サッカー選手としてめきめき成長しているフィディオは、最近はユース選抜だのイタリア代表の合宿だので連日忙しい。
爽やかなイケメンということもありメディアへの露出も増え、ただでさえ多かった女性ファンはますます増えている。
いつまでもちゃんと構ってくれる暇はないはずだというのに、やはりフィディオは優しい。
は呼びかけた数秒後、ベランダに姿を見せたフィディオに片手を上げた。





「どうしたのちゃん」
「ううん、呼んでみただけー」
「そっか。美味しそうなジェラートだね、何味?」
「オレンジー。一口あげる、あーんして」
「ありがとう! あ、ひょっとしてこれはこの間できた角のジェラート屋さん?」
「あったりー。フィーくんよく知ってるね」
「今度ちゃんを誘おうと思ってたから。でも先越されちゃったなあ」





 サッカーの練習で忙しいフィディオよりも、長すぎる夏季休暇を持て余しているこちらの方が情報に飛びつきやすいのは当然だ。
は溶けかけたジェラートを一気に胃の中に流し込むと、フィディオの背中越しに見えるごちゃごちゃと散らかっている彼の部屋を覗き口元を緩めた。





「フィーくんのお部屋賑やかだあ」
「ばれちゃったか。実は近いうちにまた強化合宿があってさ、その準備してたんだ」
「フィーくん、そういう時は私の相手してくれなくてもいいんだよ」
「・・・ちゃん、俺はね」




 フィディオのきらきらとした魅力的な笑みが急に引っ込み、真剣な表情が現れる。
何か余計なことを言っただろうか。
心当たりがなく首を傾げると、フィディオがベランダ越しに手を握る。
以前ならば軽々とこちらのベランダへ飛び移りひやひやさせていたが、さすがに合宿前はやめるようにしたらしい。
フィディオはの目をじっと見つめたまま口を開いた。




ちゃんは、俺を求めてくれない」
「へ?」
「俺はずっと前から離れている間もちゃんが好きで好きでたまらないから時間があってもなくてもちゃんを求めるけど、ちゃんは滅多に俺を呼ばないよ」
「そうかなー、私相当フィーくんとべったりだけど」
「それは俺がちゃんを誘って、ちゃんがいつも応えてくれてるからさ。俺の想いに応えてくれるのはとても嬉しいけど、俺は、それと同じくらいちゃんの求めに応えられたら嬉しいと思ってる」





 のことが本当に好きだから、に幸せになってほしくて言っているのだ。
もちろんには自分を求めてほしいが、それはに強いるものではない。
自分の心はのものだが、の心は誰のものでもない自身のものだ。
が選び望んだ相手がいてが彼と幸せになりたいと思うのであれば、たとえ選ばれた相手が自身でなくてもの幸せを祈るのだろう。
にはもっと、イタリアだけではなく世界を見てほしい。
フィディオは部屋に戻ると、用意していたまま今日まで渡せずにいたチケットと関係者用パスを引き出しの中から取り出した。
これをに渡せば、を取り巻く環境はがらりと変わる。
世界へ目を向けることによって、の視界のど真ん中にいた自分は隅どころか視界の外に追いやられてしまうかもしれない。
それはを愛する男としては負けたも同然だ。
フィディオはベランダに再び現れると、眉根を寄せているの手にチケットとパスを握らせた。




ちゃん、世界に出よう。俺と一緒に」
「いや、意味わかんないんだけど」
「強化合宿の後で試合をするんだ。相手は守たち、日本代表」
「・・・ああ! チケットくれるの? ありがと!」
「ただのチケットじゃないよ、これは。ちゃんはサポーターとしてじゃなくてコーチ、チームスタッフとして世界デビューする。
 話はもうつけてるんだ、監督も知る人ぞ知るフィールドの女神の力が見たいと言っていた」
「フィーくん今日は強引だねえ、断らせる気は「ないよ、これは俺とちゃんの試合だから負けられない」
「うわあ、強引なフィーくんもかぁっこいい」
「ありがとう。・・・ちゃんは俺だけのものじゃない。悔しいけど、俺だけのものにしちゃいけない大事な人だから。世界に出たらちゃんはきっと見つける、ちゃんが求めたくなる人を」





 誰かをもっと見たい、見てほしいと思えば人はその人のためにもっと強くなろうとする。
のゲームメーカーとしての才能は衰えるどころか磨きを増している。
選手としても幼なじみとしても、フィディオはこれ以上を小さな世界の住人でいさせるつもりはなかった。




「私、地元リーグの監督ごっこしかしたことないよー?」
「誰も見向きもしなかった下部チームを昇格させて、今まで誰も気付かなかった無名の選手を押しも押されぬ一流プレイヤーにしたことはみんな知ってる。大丈夫、ちゃんは女神様だから」
「やぁん、フィーくんってば褒め上手ー」





 そんなにべた褒めされたらやるしかないよねえ。
そうさらりと言ってのけが首からパスを下げた数週間後、フィディオはの視界の中に自身だけでは何かがいることを感じ取っていた。






誰かに恋する君が好き




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