白い超新星
コーチでも監督でもなく、ましてや観客でもない立場からサッカーを見るのは新鮮だ。
通訳だからといって練習中や試合前後だけ詰めていいわけではない。
不動がこちらに求めているのは、ただ言語を解するだけではなく試合やチームの動向を見極めた上で話を聞く通訳だ。
不動のぶっきらぼうな日本語をイタリア語に翻訳して作戦を進言するのは初めこそ手間がかかったが、今ではかなりスムーズにできるようになった。
優れたゲームメーカーの言葉を理解し、独自の解釈で説明することは思った以上に頭の運動になる。
視野が広くなったし、相手との会話もより楽しくなった。
一緒にいないとよほど言語に不安があるのか、不動はどこにでも連れて行ってくれた。
ミーティングはもちろん、チームの打ち上げや遠征先にも現地の通訳を雇うことなく帯同してくれた。
おかげで不動が所属するチームだけではなく、他のチームの人々とも知り合いになれた。
今までは有力で有名なサッカー関係者が集う場ではいつもフィディオと一緒にいたが、超ウルトラスーパースター選手でもなんでもないほぼ無名の、けれども将来有望な不動の隣にいる。
たったそれだけで見える世界がまるで違うことが、には新鮮だった。
「あっきーもこの中で見たらちゃんとしたサッカー選手みたい」
「元々ちゃんとしてんだよ。ちゃんはいつまで俺をちゃらんぽらん扱いしてんだよ」
「だってぇー、私の中のあっきーはいつまで経ってもずーっとあっきーなんだもん。その髪型もこっちに来たらあら不思議、ばっちり溶け込んじゃったね」
「やっと世界が俺に追いついたんだよ」
「そーう?」
時々、不動は本当にまだイタリア語が話せないのだろうかと思うことがある。
通訳をする前に相手の言葉に頷いているのを幾度となく見たことがあるし、1人で買い物もできているようだ。
具体的にいつまでとは約束していないが、不動がもしもイタリア語を解せるようになっていたとしたらもう通訳はいらないと思う。
使えるものはどんどん使っていかなければもったいないし、上達しない。
不動についているのは彼を甘やかすためではなく、彼の下剋上を手助けするためだ。
甘えた道ばかり歩むことはきっと不動も望んではいまい。
はチームメイトに囲まれ始めた不動に背を向けると、スタジアムの外に出た。
そろそろ新しい仕事を探した方が良さそうだ。
不動の通訳として過ごした半年あまりは大いに勉強になった。
不動を介さずとも指導者たちとは知り合えたので、最新のゲームメークなどの情報を得ることもできた。
さて、次は何をしようか。
夕飯の買い出しをすべくマーケットへと歩き始めたは、曲がり角からぬっと現れた男にモロにぶつかり尻餅をついた。
「いった・・・」
「・・・あ、ごめんね・・・!」
「もー、ちゃんと右見て左見てってフィーくんじゃん! わっ、どうしたのフィーくん! こんなとこで会うなんてびっくり!」
「ちゃん・・・?」
「うん、様だよ。どうしたのフィーくん、なんか元気な「ちゃん!!」おうっ!?」
尻餅をついたままのに、同じく膝をついたままだったフィディオが飛びつく。
石畳につけたお尻が痛い、お尻に変な跡が残る。
は駄々っ子のようにこちらに抱きついたきり離れようとしないフィディオに、えーと困惑の声を上げた。
何があってここにいるのかわからない。
気付けばパスタを食べていて、そうなるに至るまでの記憶がすこんと抜けている。
フィディオは向かいのテーブルでくるくるとフォークにパスタを絡ませているの手元をぼんやりと見つめ、あっと声を上げた。
「ちゃん!?」
「へっ? はい!」
今まさにパスタを口に運ぼうとしていたが、素っ頓狂な返事をしたと同時にソースが口の横にべちょりとつく。
フィディオは慌てての口元のソースを拭うと、えっとと呟いた。
「ここは・・・ちゃんの家・・・?」
「そうだよー。フィーくん覚えてないの?」
「・・・う、うん?」
「えっ、うっそマジで? フィーくん、私と曲がり角でぶつかったことは覚えてる?」
「それはもちろん。ちゃんだったからびっくりしたんだ。ちゃんと会うの久し振りだったから嬉しくて、びっくりして抱き締めて、それから・・・」
「フィーくんってば超情熱的だから、尻餅ついたまんまの私に抱きついてそのままフリーズしたんだよ。
で、さすがにそれは困っちゃうからフィーくん宥めて家にウェルカムしたんだけど」
「そうなんだ・・・」
「フィーくんほんとになぁんにも覚えてないんだー。いつもしっかりしてるフィーくんなのに珍しいね、もしかしてお疲れ?」
「そんなことないよ。試合がない日はちゃんと休んでるし、ちゃんは今頃何してるかなっていつも考えてる」
だからと鉢合わせしたことに驚き喜び、そして抱き締めたのだ。
思った以上にに飢えていた。
頭や心はに会ったことでショートし、記憶があやふやなのも思考回路がショートしたままだったからだ。
やはり自分にはが必要なのだ。
と離れてはいけないのだ。
フィディオは不安げな表情を浮かべているににこりと笑いかけると、出されていたパスタを口に含んだ。
「心配させちゃってごめんね。夕飯もありがとう、このパスタすごく美味しいよ」
「そ? 良かった。ていうかそれ、私はあっためただけなんだけど」
「インスタントかい? こんなに美味しいのがあるんなら俺も買ってみようかな」
「ううん、インスタントじゃなくてあっきーお手製のソースだよ。出世払いできるようになるまでの利息ーとか言って作ってくれたやつでねー」
「・・・不動はよくこの家の来るのかい?」
「んー、フィーくんの言うよくってのがどこくらいかわかんないけど、試合がこっちでやってる時は2週にいっぺんくらい来てくれるかな? あっきーマジママみたいだから、来たらご飯作ってくれるよ」
怒りと衝撃と悔しさで頭がくらくらする。
ももちろん知っているだろうが、不動はを好いている。
下心のある男をほいほいと家に上げては何も思わないのだろうか。
もしかして、一方的に好かれているのではなくて実はと不動はつまりはそういう関係なのだろうか。
を連れ去ってから、不動はめきめきと頭角を現してきた。
超強力なサポーターにしてコーチにしてマネージャーを擁し常に見られているという状況は、こちらの予想以上に不動を飛躍させた。
スタメン入りも果たした不動がチームで盤石の地位を築く日もそう遠くはあるまい。
やがてはチャンピオンリーグでボールを奪い合い、ゲームメーク対決をするのも現実味を帯びてきた。
それもこれも不動が自分の元からを奪ったからだ。
フィディオは自らの行動に何の違和感も抱かないのか、もぐもぐと不動お手製のパスタを食べ続けているにあのさと声をかけた。
「ちゃんは通訳だよね」
「うん、今はね」
「じゃあ今の俺がどう思ってるのかわかる? 不動が何を思ってるかわかる?」
「やだぁ、心の中まではわかんないよー」
「・・・そうだね、ちゃんは割とそういう子だ。そういうちゃんも好きだよ。でも俺は、もう少しちゃんには俺をわかってほしい」
「フィーくんのことはもう充分に知ってるよー。好きな食べ物好きなテレビ、好きなブランドもばっちり把握済み!」
「そうじゃない。そうじゃない。・・・そうじゃないんだ!」
は何も悪くない。
は何も変わっていない。
誰が悪いわけでもない。
ただ自分が周囲の変化に馴染めず、あるいは変化を受け入れられないだけなのだ。
とは家も近所の幼なじみだが、離れていた期間があまりにも長すぎた。
長く離れていた分今から穴埋めをしようと思ってもはもう充分大きくなっていて、彼女自身の意思で様々なことにチャレンジするようになっていた。
どこぞの幼なじみと違ってこちらはを束縛したくなかったし、のサッカーにおける成長を促すことが結果として同じ道を歩めるようになると信じていた。
だからこそ、遠征や代表戦以外ではを見守ってきたのだ。
しかし、これら行動は不動からは否定された。
場数を踏ませの才能を世界レベルの指導者や選手たちに示すために代表戦に帯同させたことの何がいけないのか、フィディオにはわからなかった。
いつだってにとっての最善を考えてきたつもりなのに、なぜそれを誰も理解してくれないのか。
もいつまで不動の相手をしているのだ。
突然立ち上がり叫んだフィディオに動揺したが、弾かれたように立ち上がりこちらへ歩み寄る。
大丈夫と声をかけられ、フィディオはをぎゅうと抱き締めると肩に顔を埋めた。
「15年前もそうだった、今もそうだ。いつだってちゃんは横から攫われる」
「フィーくん、ほんとにどうしたの。最近試合でも調子あんまり良くないって聞くけど、どこか具合悪いんじゃない?」
「俺はちゃんにとっては大きくて重すぎるお荷物なのかな。・・・イタリアの白い流星っていうのは、ちゃんには眩しすぎるのかな」
「・・・あっきーに何か言われた? 気にしちゃ駄目よフィーくん、あっきーの悪口って大体焼き餅が原因だから気にしちゃ駄目」
「・・・ちゃんは本当に彼のことはよくわかってるんだね・・・。俺はすごく悔しい・・・」
こんなに好きなのに、こんなに大切にしているのに、―――こんなに思い詰めているのに。
こちらが困り怒り取り乱すほど、は悲しげな顔をしてしまうのだろう。
フィーくんちょっとおかしいとか思うのだろう。
はそういう子だ。
フィディオはから離れると、呼び止める声に耳を貸すことなく家を後にした。
こういう人、そういう人、どういう人?