幾夜を越えて言葉責め
修也くんお願いがあるんだけどといつになく柔らかな口調と目線で訴えかけられれば、断ると即答する。
いつでもどこでもTPOを弁えず修也と呼び捨てにするがくん付けをする時は、決まってろくなことがない。
豪炎寺は机の広げていた教科書やノートを鞄に仕舞うと、縋る幼なじみを視界からシャットダウンし立ち上がった。
えーひどい修也それでも私の幼なじみなの薄情者と浴びせられる罵詈雑言に眉をしかめる。
数秒前まで救世主のように見つめていた人物に対する言葉とは思えない。
化けの皮を被るなら、もっと首深くまでそう易々と外れないように被るべきだ。
すぐに皮をかなぐり捨て、初めから被れない皮は無理に被らなくていいのだ。
豪炎寺はをじろりと見下ろすと、もう一度断ると答えた。
「なぁんでまだなぁんにも言ってないのに嫌って言うわけ。ひょっとしたら修也にとっていいことかもしれないのに」
「何年と付き合ってると思ってるんだ。この時期のの懇願が俺のためになった験しは一度もない」
「わっかんないじゃん! 今度こそ、いや、次は絶対修也の役にも立つからほんとお願い鞄の中身全部レンタルさせて」
「ほらやっぱりそうだ。どうして自分で後で見直してもわかるようなノートを作らないんだ」
「作ってるもん」
「でも、見てわからないならそれは作ってないのと同じだ。何度同じことをやれば満足するんだ。中学入ってテストは何度目かわかるか?」
科目別に色を変えているのか、の鞄の中に眠るカラフルな表紙のノートたちの中から“Science”と書かれたそれを抜き出す。
女子たちの間で流行っているやたらと丸こくて読みにくい暗号文字とは無縁の、さっぱりとした文字がつらつらと書かれている。
黒板を一生懸命写したのだろうが、書きながらも既ににとっては未知の領域に苦戦していたのか重要単語の部分だけ微妙にぐにゃりと歪んでいる。
感情がとてつもなくわかりやすく読み取れる文字だ。
これでは、見直しをしている時にもはまた同じところで首を傾げてしまう。
豪炎寺はますます表情を険しくすると、隙を狙いもぞもぞと他人のノートを盗もうとしているを一喝した。
「どうしていつも試験近くになって言うんだ。どうしてもっと早くから言わないんだ。どうしてならってすぐに訊かないんだ」
「だって、今度はミラクル起こるかなって信じちゃうじゃん」
「この出来で雷門に入れたことが俺は一番の奇跡だと思う」
「理科以外は優等生ですからあ?」
だから後は理科コンプするのマジの優等生になるからノート貸して!
今のに必要なのはノートじゃなくてノートを作った賢い教師役だ!
しまった、売り言葉に買い言葉でついついうっかりに貴重な時間を貢いでしまった。
自身の復習のために使おうと思っていた時間を、またもやへのティーチングタイムにしてしまった。
いったいいつになれば、自分のためだけの勉強時間を作ることができるのだろうか。
豪炎寺は敵の首級を挙げたかのように高々とお目当てのノートを掲げ笑うを見つめ、額に手を当てた。
我が強い幼なじみだが、意外と流されやすい面も持っている。
悪用しようとは思わないが、を洗脳して思うがままに動かすのは案外容易いかもしれない。
たとえ厳しくきつい口調で言わずとも、長く説いていればはふむふむなるほどと呟き頷く。
理科以外は卒なくこなせる程度には頭は悪くないのだから、時間をかければどうとでもなる。
時間をかけて躾けることが煩わしいので今でこそやる気は起こらないが、ひょっとしたら今後、どんなに長い時間をかけてでもを説き伏せたくなる日が来るかもしれない。
だから、今日のこの時間と手間はいずれ来るかもしれない未来に向けての予行練習だ。
豪炎寺はむうと眉根を寄せ、本人にとっての難問に取り組んでいるの眉間をつんとペンでつついた。
ありとあらゆる物事に対して淡白なが没頭する数少ないイベントが理科の勉強だ。
万事ゆるゆるまったりと余所見してこなすもさすがに理科だけは手抜きできないと本能が告げたのか、誰に言われるでもなく真剣に問題と戦っている。
この熱心さをサッカー観戦にも活かせばもっと違う関係が築けたのに、どうやら洗脳をしそびれたまま今に至ってしまったらしい。
豪炎寺はご自慢の顔を弄られたことに気付かずうんうんと唸りながら格闘を続けているを横目で見やり、ため息をついた。
教えている間はまだ良かったが、問題を解かせている間はとてつもなく暇だ。
じっくり考えてもどうせわからないのにじっくりと考えるふりなどするものだからあっという間に2時間は経つし、空白の2時間が暇で暇でたまらない。
暇だ、やることもやり終えてしまったここ1時間は特に暇だ。
問題集との格闘3時間目に突入したの隣に寝転がりサッカー雑誌をぱらぱらと捲るが、いくらサッカーバカでも既に5回も読んだ雑誌は楽しいとは思えない。
あ。
ぽつりと漏れたの呟きに勢い良く体を起こす。
どうしたんだ終わったのかわからないのかと矢継ぎ早に尋ねると、がぎょっとした顔をこちらに向けてくる。
何なのそのテンション。
は冷ややかに言い放つと、筆箱の中からシャープペンの替え芯を取り出した。
「まだ終わらないのか? いつまでやってるんだ」
「んー・・・、できたようなできてないようなわかったようなわかってないような、どこまでわかってればわかったって言えるのかわかんないような・・・」
「つまり自信がないんだろう。どうしてもっと早くわからないって言わないんだ」
「だってわかってるかもしれないじゃん。わかってなかったら修也怒るし、怒った修也怖いだけでいいことないし」
「これだけ待たされた挙句わかってるかどうかわかんないなんて言われてみろ。怒りたくなるのも当たり前だ!」
「怒られてもわかんないもんはわかんないもん! なんで私にわかるように教えないの修也のいじわる!」
「じゃあわかった、いつものコースにしよう。あれなら実績もある」
「う、それはや「だじゃない。こんなに付き合わされたんだ、80点・・・いや、85は取ってもらわないと割に合わない」
嫌だやだようとごねるの隣にぴたりと座り、2時間超に及ぶ待ち時間の間につい癖で作っていた読み聞かせ用理科台本を読み上げていく。
夕香への絵本読み聞かせと普段のに対する説教で培われた朗読力には、サッカーと勉強の次くらいに自信がある。
今からテスト当日までの時間があれば、確実にを理科のことしか考えられない脳に変えられる。
人を洗脳するなどちょろいものだ。
豪炎寺は隣で頭くらくらするうと弱音を零すに向け、より情感を籠め台本を読み上げた。
「徹夜でやったら声が出なくなった」「マジ寝不足」「・・・テスト前もお盛んなことでとか言やいいわけ?」