いやだってさ、そりゃ喧嘩ぐらいするでしょ。
若いんだからそういうエネルギーも有り余ってそうだし?














Case××:  実家に帰ります
            ~勘違いから始まる離縁~












 ジュール家の若夫婦はそれはもう、近所の噂になるほどに仲睦まじい。
エリート街道まっしぐらの旦那様と、若くて元気でとびきり美人な奥様。
嫁姑問題でいがみ合ったり、ジュール家の面々からの嫌がらせなども一切ない。
そんな人懐こい性格をした彼女は、嫁にしたい(してもいい)女性ナンバーワンらしい。
姑にあたるエザリアも、己の目に狂いはなかったとさりげなく自己満足している。
忘れられがちだが、初めにイザークとの縁談をセッティングしたのは彼女である。
何もない関係から結ばれたわけではないのだ。


 とまあ、このように非常に評判の良いおしどり夫婦が今、未曾有の危機に直面していた。
が実家に帰りたいと言い出したのだ。
当然のごとくイザークは拒否する。
それでまた、話はややこしくなるのだ。








「いいじゃないの別に。たまには気分転換も必要だって。」


「何いっ!? 俺といるのが辛くなったのか!?
 どういうことだ、まさか他に好きな男でもできたのか!?」


「だって寂しいんだもん!」






 だって寂しいんだもん。
の叫びにイザークは硬直した。
自分と一緒にいるのが辛くなった。
けれどもやっぱり寂しい。
するとそこに、人妻の日中の寂しさにつけ込んだけしからん男が現れた。
あろうことか我が最愛の妻は、その男に寝取られてしまった・・・!?
イザークのたくましすぎる妄想は果てしなく続き、ついには不倫の末に離婚なんていう泥沼エンディングを迎えてしまった。
このイザーク・ジュールという男は、今も昔も思い込んだら一直線な直情タイプの性格である。
彼は自分が考えただけに過ぎないその予想に絶望した。
と同時に、なんとしても阻止して見せるという気合いが入りだした。
妄想で勝手にけしからん男の餌食になってしまったにしてみれば、迷惑極まりない勘違いである。









「たかが俺のいない時間が寂しいというだけで!!
 俺にその男との密会が知られる前に、実家でほとぼりを冷ます魂胆だな!!」






 の呆れたような顔が、たちまちのうちに紅く染まった。
何を言っているんだと夫の妄想を聞き流すにも限度があった。
男って、密会って何だ。
ほとぼりを冷ますって、あまりにも信頼されていないではないか。
は馬鹿馬鹿しくなってきた。
これ以上彼と話しても意味がないように感じる。








「イザークが私のこと疑ってるなんて信じらんない。
 いいわよ、ほとぼりだろうがなんだろうが、実家に帰らせていただきます。」


「な・・・っ!? 本気で帰るのか、この家から出て行くのか!?」


「今度はちゃんと信頼できるお嬢さんをもらうことね。」






 そう言ったきり、はさっさと荷造りを始めた。
部屋を出る直前、イザークは慌てて彼女を呼び止めた。






「本当に帰るのか?」


「何度もそう言ってるでしょ。じゃあね。」







 イザークは遠ざかっていくをぼんやりと眺めていた。
あぁ、本当に出て行ってしまうんだな。
4年近くかけて育んできた愛も、たった10分かそこらで崩れ去ってしまうのか。
愛情なんて所詮そんなものなのか。
最後の最後までらしい、きっぱりさっぱりとした別れ方だった。
未練もなさそうだったし。
あんないい女、これから先どこを探しても見つからないだろう。
イザークははっとした。
彼女が未練はなくても、自分はに対して未練ありまくりじゃないか。
どうしよう、なんだかものすごく取り返しのつかないことをした気がする。
真っ青になったイザークが窓の外を見るが、時すでに遅し。
の姿はもうない。
彼の元に怒り心頭の母親が怒鳴り込んできたのは、それから1分後のことだった。











































 突然何の前触れもなく帰ってきたに、家の人々はそれはもう驚いた。
嬉しいやら不思議やらで、屋敷は一時混乱に陥ったのだ。
父が家督を譲って今は兄夫婦の代になっているが、彼らとの関係も良好だ。
というか、いつの間にやら兄夫婦の居宅だろう、離れがどかんと建っていた。
どおりで帰って来た時に、庭が少し狭くなったと思ったわけだ。
ちなみに家の庭はそれでもまだ充分に広く、あと2,3軒は建てられる面積がある。







「母屋でも良かったらしいけどね、子ども部屋付きの家を1つ建てておけば後世にも使えるだろうって。」






 住み慣れた実家で母とのほほんとティータイムを楽しむは、兄夫婦の仲の良さを羨ましく思い見つめていた。
ちょっと家に帰りたくなっただけなのに、離婚寸前になっている我が家とは大違いだ。
どうしてイザークはあんなにおかしな考えをするのだろうか。
はその思考回路に多大なる疑問を覚えた。
ほとぼりを冷ます必要があるのはイザークの方だ。
どこをどういじくったら、頓珍漢な発想が生まれるのか全く見当がつかない。






「ねぇ・・・。本当にジュール家に戻らないの?」


「あれだけプライド傷つけられちゃ、おいそれと帰るわけにはいかないの。
 喧嘩を売ったのはイザークの方。私から帰る理由なんてないもの。」






 の母はほう、とため息を吐いた。
昔から気が強くて負けず嫌いな娘だったが、まさか婚家から出て来るほどとは思いもしなかった。
姑との仲も極めて良好だというから安心していたのに。
早いうちに孫の顔も見れるかしらと期待していたのに。
しかしもう無理ならば、仕方がない。
まだ若いし、そのうち別のいい人を見つけるだろう。
何も男はイザークだけではないのだ。
エルスマン家の若君なんて、なかなかいいかもしれない。
結婚する前は、むしろイザークよりも彼と一緒につるんでいる時間の方が長かった気がする。







「まぁ、しばらくはゆっくりしていってね。
 ここはの実家なんだから、気兼ねすることなく過ごしていいのよ。
 きっとこれから先にも、イザークさんみたいに愛せる男性に出逢う機会はあるはずよ。」






 さりげなく離縁、でもって再婚を示唆する母にの顔が引きつった。
穏やかに見えてズバッと物を言ってのける母である。
放っておけば、いつの間にかジュール家との縁が切れていたなんてこともあるかもしれない。
そうなればもはや、笑えない実家帰りが出戻りになってしまう。
しかし戸惑うを余所に、母は妙に乗り気である。


 こうして家は諸手を挙げて出戻り(仮)お嬢様を匿った。
そしてそれは、イザークにしてみればひどくショッキングな現実だった。


















































 イザーク母はエザリアの説教に一言も言い返せなかった。
後悔しまくっている自分がいた。
なんて浅はかなことをしでかしたのだと、己の短気具合を呪った。






「彼女以外の女性を後妻に迎えようものなら、私はあなたを勘当します。
 ジュール家の嫁はただ1人です。」


「俺もそう思います。」



「そう思っているのなら、今すぐ迎えに行きなさい!」







 元々ジュール家の跡取り息子であったはずのイザークが、今や1人孤立していた。
母からメイドから、一様に批判されたり非難の目を浴びせられた。
女の結束力はつくづく恐ろしいと、イザークは身をもって知った。
しかし彼女たちに尻を叩かれなくても、イザークはを迎えに行こうと決めていた。
このままでは向こうから三行半を書けと迫られかねない。
そうなれば最後、彼女とは赤の他人になってしまう。
彼女が再婚なんてしようものなら、その相手の男を誅しかねなかった。
自分がとても慈しみ愛してきたものが他人の奪われるのは、嫌いなのだ。
だったらどうしてあんな馬鹿らしい妄想をしたのだと、自分に的確なツッコミを入れる。
あれは悪魔の囁きだったのだ。
との仲睦まじさを妬んだ悪魔が仕掛けた、醜悪な罠なのだ。
イザークはそう思い込むことにして、家へと急いだ。
門の辺りを掃除していたメイドに姿を見咎められる。







はいるか・・・?」


「・・・いらっしゃいますが・・・。」


「会いたい、会わせてくれ。」


「・・・お嬢様がいいとおっしゃれば。」



「あら、イザークさん。お久し振りね。」







 奥様、とメイドが小さく叫んだ。
そっくりだが、彼女よりも幾分か齢を重ね、そして淑やかな上品な貴婦人が現れる。
イザークは思わず直立して頭を下げた。
彼にとっては義母にあたる、の母だった。
この女性、ほんわかとしているが油断はできない。
婚約者時代には、ぎょっとさせる質問を発してくれた。







「ご無沙汰しています、お元気そうで何よりです。」


「イザークさんもお仕事が忙しいとか・・・。娘が言っていましたよ、なかなかゆっくりできないって。」






 を取り返しに来たのかしら、と母は尋ねてきた。
イザークはこくりと頷いた。
取り返しに来たという言い方も妙だが、似たようなものである。
それに家にしてみれば、そう受け取っても差し支えない暴挙をされたのだ。
大切な一人娘を手放すのは惜しいに決まっている。







はどこに・・・?」


「ずっと家にいますよ。ジュール家には帰らないって駄々こねてますけどね。
 ほんとにもう、言い出したら聞かないんだから。」


「帰らない、ですか・・・。困ったな・・・・・・。」


「そうでしょ。だから私娘に言ったんです。いっそのこと縁切って他の男性に嫁いだらどうって。
 バツイチになっちゃうけど、子どもの幸せを願うのが親だし。」






 義母の言葉にイザークの顔から血の気が引いた。
なんてこと吹き込んでるんですかお義母様。
あなた俺のこと憎んでるんですか。
しかもそれを本人の前で言いますか。
まさか確信犯か!?
しかし母は相変わらずにこやかな表情のまま、イザークを家の中へ招き入れた。
応接間に控えていたメイドの1人が、イザークの顔を見てぴくりと顔を強張らせる。
ここでも針の筵に座っているような感じになる。







「・・・お義母様、先程のお話は本当ですか。」


「嘘なんて言いませんよ。」


の返事は。」



「曖昧に笑っていましたよ。どういう意味なんでしょうね。」






 ことりと小首を傾げられても答える術がない。
イザークはショックだった。
もしもがこの母の助言を聞き入れたのならば、限りなく勝ち目はなくなる。
けしからん男の勘違いどころではなくなってしまう。








「・・・さて、本題に入りましょうか。娘を傷つけるようなことしかできないのならば、もう近寄らないで下さい。」


「な・・・っ、誤解ですお義母様!!」



「誤解・・・? どういうことでしょう、娘を傷つけるようなことはしなかった。
 沿う受け取っても致し方ありませんよ?」







 意地悪をされているわけではないのだ。
すべて事実を突きつけられているのに過ぎないのだ。
ただ、それがイザークにぐさぐさと突き刺さった。
このままでは本当にに逢えなくなる、赤の他人になってしまう。
イザークが持つ手札は少ない。
あるとしても、それは義母の手札よりも数段劣っているものばかりだった。
彼は本人と話がしたかった。
義母を介してではない。
直接に会って言葉を交わしたかった。









「長い夫婦生活には喧嘩をすることだってあるでしょう。
 でも、私たちと会えなくて寂しくなったから帰りたいというの願いを拒絶するのは、一方的すぎますよ。」


「お義母様たちと会えなくて寂しい・・・?」






 なんだそれは、とイザークはいぶかしんだ。
そんな話、初めて聞いた。
イザークは今回の実家に帰りたい騒動を一から洗い直してみることにした。
そもそもの発端は、が寂しいと言ったことから始まったのだ。
そして彼女の『寂しい』発言を、けしからん男との疑惑に勘違いしたのは自分だ。






「・・・あ、まさかあの時の『寂しい』っていうのは・・・。」





 その真相に気付いた瞬間、イザークの頭に雷やら岩やら盥やらが降ってきた。
そうだったのか、はただホームシックにかかったのか。
家族や家に勤める人々との絆が深い彼女だ。
慣れないジュール家で明るく元気に振舞っても、寂しくなる時だってあるに違いない。
あろうことか自分は、家族に会いたがっているの切なる願いを切り捨てたのだ。
のみならず酷い疑いをして、怒らせてしまった。
がますます実家に帰りたくなるのも当然だ。







「俺は・・・っ!!」


「幸か不幸か娘は割と打たれ強いので、ショックを受けるどころか怒ってたけれど。」


「・・・に伝えて下さい。・・・いや、今言っておきます。
 今回は全面的に俺が悪かった。お義母様たちと今まで寂しかった分一緒にいてくれ。
 でも・・・・・・、また俺のところに帰ってきてくれないか?
 俺の妻はしかいない。」







 イザークの視線は義母ではなく、彼女の先に佇むメイドに向けられていた。
初めこそただのメイドだろうと思っていたが違った。
義母上もなかなか粋な計らいをしてくれる。
彼女の様々な癖を知り尽くした自分の前では、変装もただのコスプレだ。





「今度は弁明ではなくて、素直に遊びに来てくださいね。
 それから、さっきまでのお話は本当に嘘じゃなくってよ。」


「・・・えぇ、大切にしますとも。愛しい妻ですから。」







 その場を後にしたイザークの背を、はじっと見つめていた。





























































 ジュール家を揺るがせた大事件は1週間足らずで解決したが、抜けた穴が戻って来るのにはそれからさらに1ヶ月あまりを要した。
が帰ってくるまで、イザークは気が気でなかった。
帰って来てくれとは頼んだが、やはり愛想を尽かされてしまったのか。
ここよりも実家の方が居心地が良すぎて、ついつい帰りたくなくなったのか。
もしかしてあのメイドはではなくて、別人だったのか。
あらゆる想像はイザークの脳神経や胃を破壊し、病人かと思われるような状態にさせた。
さすがにこれはまずい、縁が切れていようがを呼ばなければ。
ジュール家の人々がそう焦り始めた直後、ひょっこりとは帰ってきた。
常時と変わらず、ただいまーと元気良く帰ってきた妻を見た途端、イザークの心の病が癒えたのは書くまでもない。






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