公主様の帰還     序






 あんたの帰る場所は、ここだ。







 その日々は、とてつもなく長かった。
父の代から長く孫家に仕えてきたが、まさか牢に入れられる日が来るとは思いもしなかった。
こんな目に遭うのならば、変な意地を張らずに自分も国を飛び出しておけば良かった。
凌統は、庭園でのんびりと花を愛でている妻へと視線を移した。
ですら囚人扱いされなかったのにと呟き、己の発言に眉をしかめる。
殺さないでくれ、酷いことをしないでくれとがむしゃらに頼み込んだから、彼女は今こうして穏やかな表情を浮かべ生きているのだ。
生かされた恩なんて感じなくていい、ただ傍にいてくれるだけでいい。
その願いは、なかなかどうして叶い難いものらしいが。
彼女の周囲は、彼女が彼女であるがゆえに平穏とは少し遠い。




「公績殿。お顔の色が優れません、もしやまだ牢での生活に・・・」
「そのくらいでヘタれる俺じゃないっての。ほんとに牢かなって思うくらいに快適に過ごさせてもらったし。それに、脱獄は許してくれないあたり孫呉の警備は厳重だって身をもって知れたのもいい経験ってね」
「陸遜殿の奥方の一件により、各将の護衛も手厚くなったと伺いました」
「どこに間者が紛れてるかわかったもんじゃない、うちも気を付けとかないと。俺の嫁さんには特に厳重に」



 先日、陸遜がようやく妻を迎えた。
長年の片想いが成就するに至った、もとい細君が音を上げたきっかけを作ったのは他でもないだ。
外交というのは武をもって戦うよりも兎角頭と神経を削り、そして肝も冷やす戦いらしい。
元は関羽軍に降っていた曹魏の降将が許昌へ帰還する時期に合わせ、ひとつの事件が起こった。
幸いにも国を揺るがすほどの大乱にはならなかったが、あわや有能な女官と某将軍の奥方、そして大都督殿を喪いかねない騒動だった。
実家へ帰ると書置きを残し去ったは、本当に帰省していた。
彼女が犯行元の狙いだったのに、無茶な行動に陸遜と打って出た。
人違いで巻き添えを喰らっただけの友人、現陸遜の妻を捨て置けるほどは冷静ではない。
帰国が何を意味するか理解した上でお騒がせ夫妻を取り返してきたは、ひょっとしたらこの国で一番豪胆なのかもしれない。



「わたくしに過度な護衛は不要です。ですが、公績殿にひとつお願いしたいことがございます」
「珍しいね、が俺におねだりなんて。いいよ」
「まだ何もお伝えしておりませんが・・・」
「戦はないし、無茶するものじゃないって大方の予想はついてるからね。でもま、一応聞かせてもらおうか」
「私兵を囲うことをお許し下さい」
「私兵?」



 は軍属ではない。
勝手に戦いだすが、軍人ではないのでもちろん兵の指揮権も持たない。
名称曹操の娘なので兵を率いればそれなりに上手いかもしれないが、将にさせるつもりは微塵もない。
邸に控える従者たちだけでは不安があるのだろうか。
それとももしや、夫の用兵術を暗に非難している?
一度は了承してしまったが、内容が内容なだけに即決を翻したくなる。
私兵とか言って、実は彼女好みの青年を囲いたいだけだったらどうしよう。
ありえる、なぜなら彼女の父は妻子を多く持ったことでも有名な曹操なのだ。
彼女に横恋慕した凶悪な男とかつて殺し合いをした経験もあるから誰よりもわかっているつもりだ。
彼女を取り巻く男は概ね危うい性質をしている、と。



「どこのどいつだい? 人の嫁さんに夫の断りもなく私兵として囲えなんて強請った命知らずは」
「公績殿もよくご存じの方々です」
「朱然かい? まったく、大目に見てたらとんでもないことを言ってくれるね」
「朱然殿は兵を束ねるお方でございましょう。私兵、というよりも子分のような・・・」
「姐御ぉぉぉぉ! そんなまだるっこしい言い方してたら日が暮れちまいますって!」
「・・・・・・あれ?」
「左様にございます。甘寧殿に仕えておられた子分の方々でございます」



 いつから我が邸の庭園は、出入自由の無法地帯になったのだろう。
の私兵になればその辺りの礼儀作法も正されてくるのだろうか。
そうであってもらいたい。
これほど警備が緩ければ、間者どころか暗殺者も入り放題だ。
凌統はばたばたと騒がしく現れた甘寧の元子分たちを見やり、ため息をついた。
































 凌統様の奥方がおいでになっております。
側近からの報告に、孫権は書簡の山から顔を上げた。
ちょうど政務から逃げ出したいとは思っていたが、救いの手を差し伸べてくるのが彼女とは。
公主が自ら宮殿を訪ねるなど珍しい。
いや、初めてかもしれない。
との仲は良くも悪くもない。
初めこそその出自からそれなりに警戒し近辺を探らせもしたが、祖国は本当に彼女が死んだと思い込んでいるのか何もなかった。
陸遜に扱き使われても文句ひとつ言わず執務に励んでいた真摯な態度は文官たちの良い手本となったし、心なしか宮中の品位も上がった気がする。
恐れ知らずの学友に市井の勤務先にまで押しかけられていた時はさすがに申し訳なさでいっぱいだったが、面白かったので傍観していると張昭に下品だと叱責された。
感謝すべきことはたくさんあるが、何も伝えていない。
曹操の娘に頭など下げたくないという妙な自尊心が、邪魔をしているのかもしれない。
妹を救い、国家の重臣を救い、合肥では己が命すら救ってくれた大恩人なのに、である。



「こちらへお通しいたしますか?」
「いや・・・外で会おう。あの人にかしずかれるのは居心地が悪い」



 今の季節ならば、池の傍の四阿がいいかもしれない。
蓮の花もちょうど見頃で景色も良いし、死角もないので周囲も安心する。
孫権は、向かった先の四阿から池を見下ろしていた人影に声をかけた。


「珍しいな、あなたが私に面会を求めるなど」
「殿下におかれましてはご健勝のこと・・・」
「堅苦しい挨拶はやめてくれ、肩が凝る。せっかくの来客でようやく暇ができるとこちらはほっとしているのだ、そのつもりで頼む」
「かしこまりました」
「それすらまだ固い・・・と言ってもあなたが困るだけか。まったく、同じ妹でも尚香とはまるで違う」
「尚香殿は息災でいらっしゃいますか?」
「先だって蜀の使者に聞いたが、元気にしているようだ。あなたのおかげだ。ずっと礼を言わねばと思っていたが、言えずじまいだった。我らを救ってくれて感謝している」
「おやめ下さい、堅苦しい」


 真正面からぴしゃりと言われ、思わず居住まいを正す。
なるほど確かに背筋が伸びる威厳だ。
これを言われるとその辺のごろつきは萎縮あるいは激高するだろうし、朱然も一瞬で見惚れるはずだ。
この人は、寵愛される凌統の前では甘えられているのだろうか。
下世話な考えがふとよぎった孫権は、慌てて首を左右に激しく振った。
下衆な表情になっていなければ良いが、眼前のは相変わらず澄ました顔をしているので事なきを得たようだ。



「わたくしが為せることなど、些細なものばかりでございます。それよりも、本日殿下にお目通りをお願いしたのは、私兵を雇うことへのお許しをいただきたく」
「私兵?」
「かつて甘寧殿に従っていた子分の方々を覚えておいででしょうか。甘寧殿が亡くなられた後、わたくしを頼ってこられました。公績殿は、あの者たちであれば良いと仰って下さったのですが・・・」
「甘寧の元子分がなぜあなたに? 彼らと親しいとは知らなかった」
「わたくしは市井に疎いゆえ、子分殿たちにいろいろと手ほどきをしていただいておりました」
「そうだったのか。凌統ではなくあなたの私兵になりたいとは好かれたものだな。構わん、立派な孫呉の虎に鍛え上げてくれ」
「ご厚情ありがとうございます。勇壮なる虎に、必ずや」



 子分たちもどこかに、の上に立つものとしての風格めいたものを感じ取ったのだろう。
甘寧の後継にを据えるとは、子分たちはなかなかに見る目がある。
の元でおそらく品行方正に育て鍛え直された彼らならば、将来孫呉の社稷を支えるに足りる逸材になるかもしれない。
孫呉は人が宝だ。
有能な人材は喉から手が出るほど欲しいし、育てていかなければならないと常日頃から感じている。
世代は着実に変わり、時代は待ってくれない。
許昌にいた頃のの生活がどのようなものだったのかはわからないが、彼女の、いや、曹操の周りには超一級の有能な将官たちが常にいた。
は、ただの親切で動くだけの浅はかな女ではないはずだ。
彼女なりに子分たちの美点を見出して私兵として雇うに至ったに違いない。
そうでなければ、自らの置かれた立場を熟知している聡明な彼女が私兵などという警戒されてしかるべき手段を取るとは思えない。



「私兵とはいえ、何かと入用だろう。不足があれば気兼ねなく相談してほしい」
「もったいないお言葉でございます」
「なに、兵を雇う給金のために皇妹自ら市井で肉まん売りに精を出していると曹丕に知られでもしたら、さすがに私も罰が悪い」
「七歩歩く間に弁明を求められるやも・・・」
「ははは! 随分と短気なことを言う!」


 冗談と思い孫権は笑い飛ばしたのだろうが、目の当たりにしてしまった事実だ。
最近始めた余興だが子建はすごかろう、ではない。
多彩な異母兄たちが言う「楽しい余興」は、詩才に乏しい異母妹から見れば恐怖の会でしかない。
孫呉は酒を喰らい殴り合いをするだけの単純な国で良かった、酔いながら詠えとか強要される国ではなくて良かった。
酔いながら詠ってしまう兄たちだが。
は孫権の快活な笑みに合わせ、小さく笑い返した。





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