公主様の帰還     2







 今日はささやかな歓迎会だ。
妻の私兵とはいえ、知らぬ仲ではない。
甘寧を兄貴と慕い犬のようについて回っていた子分が、の元で働くこととなったのだ。
気心の知れた相手なので安心はできる。
改めてこれからもよろしく頼むよと子分たちの杯に並々と酒を注いだ凌統は、任せて下さい姐御の旦那と返され眉根を寄せた。




「・・・何だい、その呼び方は」
「姐御は姐御ですし、そうしたら凌統様は姐御の旦那になるんで!」
、悪いけど早速こいつらに常識を教えてやってくれないかい?」
「公績殿のことは今までどおりで良いのですよ、胡分殿」
「姉御がそう仰るなら、凌統様は凌統様でいかせてもらいます! あと凌統様、俺もついに名をいただきまして! これからは胡分とぜひ!」
「へえ、良かったね。から姓を賜るなんてこりゃ将来は大将軍かも」
「亡き兄貴も姐御も、名も持たぬ浮草の俺らと分け隔てなく付き合ってくれた恩人でさあ。この胡分、今度こそ生涯姐御の私兵としてお守りしていきます!」




 酒の勢いも借りてか、大音声で誓いを立てる胡分の真っ赤な顔をはじいと見つめた。
子分も他の私兵たちも皆、甘寧という主を先に亡くしている。
彼らがどんな大志を抱き甘寧に仕えていたのかは知る由もないが、喪った悔しさはいかばかりだったろうか。
もちろん戦場へ赴くつもりはない。
彼らを出陣させる予定もない。
胡分たちは確かに戦達者だが、個の武はいずれは衰える。
自らを根無し草と評する彼らに与えるべきは、再び主を喪うことになっても拠って立つことができる基盤だ。
元は水賊として方々を遊び回っていた子分たちには、水の利がある。
軍団の大船団が行き来できないような難所も彼らは熟知している。
であれば、彼らの経験と知識を生かした生業はできないだろうか。
の脳裏には、漠然とだが私兵たちの行動計画が出来上がりつつあった。



「胡分殿、明日はわたくしと船出いたしましょう」
「早速の初任務ってやつですね! 承知しました、姐御のためにとびきりド派手で上品な楼船を見繕ってきます!」
「いえ、そのような大きなものではなく・・・。人の往来に使うもので構いません」
「走舸ですね、お任せください!」



 孫呉に住まう以上、船での往来は避けられない。
乗るにはだいぶ慣れてきたが、できれば長居はしたくない。
明日も体調次第だが、胡分たちは皆船の扱いには秀でているので大事には至らないだろう。
胡分たちの操舵法が水賊仕込みだということに、はまだ気付いていなかった。






















 手荒い操舵にもびくともしない孫呉の造船術はさすがだが、には刺激が強すぎたらしい。
私兵となって早々、主の容体を悪化させた不始末に胡分たちは生命の危機を迎えていた。
新しい主にいいところを見せようと張り切りに張り切り自慢の操舵を披露した結果、が音を上げた。
甘寧や凌統曰く南方の生まれではないらしいは、生活の糧として求められる以上の船に対する耐性がない。
高官たちは楼船を洞庭湖に浮かべ戦場で宴をすると聞くが、はそれにもあまり気乗りしなかったという。
は船上で炎を見るのが嫌だから。
そう呟いていた凌統の横顔は、とても苦しげだった。
それら経緯をすっかり忘れていたのは、完全にこちらの落ち度だ。
船慣れしていない者でも卒倒しますと偶然通りかかった自称主の天敵事陸遜に叱責され、今は説教の真っ只中だ。
天敵の不調に小躍りしない陸遜は、器が大きくできている。
妻を迎えたことでようやく丸くなったのかもしれない、陸遜は愛妻家で有名だ。



「そこ、聞いているのですか! まったく、私兵の躾もなっていないとは殿もまだ甘い・・・」
「あ、姐御のせいじゃないです陸遜様!」
「当然です!」



 陸遜はしおらしく項垂れている胡分にひとしきり『やさしい船の扱い方』を伝えると、木陰で涼を取っているへ歩み寄った。
まだ顔色が青白い。
お見苦しいところをと言って立ち上がろうとするを諫め、隣に腰を下ろす。
私兵となった胡分らのために張り切ろうとしたのはも同様のようだ。
似たもの主従。
思わずそう呟くと、が怪訝な表情でこちらを窺う。



「あなたが先陣を切って動く必要はないというのに、なぜ殿はいつも無茶ばかりなさるのです」
「兵を統括するのも将の務めと心得ております」
「そうだとしても、いえ、だからこそあなたはご自分を第一に保たなければなりません。胡分殿たちに、また主を喪わせるつもりですか」
「そのようなつもりは毛頭ございません。・・・主とて、部下を喪うのはとても辛いこと」




 昔、典韋という男がいた。
父に見出され仕えていた猛者で、いついかなる時も父の傍に控えていた。
宛城で父を庇い守って死んだ、父にとって忘れえぬ人だ。
あの戦いでは異母兄も死んだのだが、父は、実の息子の死よりも典韋の死を嘆いたという。
父らしいと思う。
赤壁でもきっとそうだったのだろうと思う。いや、そうであってほしかった。
胡分たちを典韋のようにはしたくない。
彼らにそのつもりがあろうと、身を賭して守ってもらうほど崇高な命はない。
なるほど、だからこちらも無理をしてはいけないのだ。
はゆるりと胡分たちを顧みた。
とても不安げな表情を浮かべている。
私兵の士気を下げるようなことをしてはならない。
幸い、休んでいたら気分も良くなってきた。
は立ち上がると、胡分と船たちの元へと歩き始めた。
船が心なしか沈んでいるように見えるが、気のせいだろうか。



「あっ、姐御ぉ! すみません、俺らのせいで姐御に負担を・・・」
「でも姐御もそろそろ荒操舵に慣れてもらわないと・・・。凌統様も陸遜様も、実は結構手加減してて・・・」
「それは誠でございますか?」
「ばっ馬鹿野郎! 南方育ちでもない箱入りお嬢の姐御を俺らの船に合わせさせるつもりか!?」
「皆の言う通りです。わたくしも、苦手を苦手と思わず鍛錬を積まねばなりますまい。・・・それはそうと、船に何か隠してはおりませんか?」
「「げえっ」」
「よもや盗品では・・・」




 布で覆われ隠された船荷から、きらりと何かが光っている。
この曹の私兵となったからには、略奪は許さない。
岸へ送還した後も船を漕ぎだしていたが、まさか・・・。
みるみるうちに顔色が変わっていったのか、胡分たちがあたふたと両手を振り回し始める。
ち、違うんです姐御ぉ!
叫びながら外された布から現れた鎧や刀剣に、は首を傾げた。
騒ぎを聞きつけた陸遜も駆けつけてくる。
面倒なことにならなければ良いが。
凌統に迷惑をかけなければ良いが。
は泥で黒く汚れた武具のひとつを手に取ると、泥を拭った。
頭をガツンと殴られたような衝撃に、思わず泥が付いたままの手を額へ当てた。



「船底が妙に擦れるんで川を浚ってみたら、これがどっさり出てきたんです。まあ、清掃活動?みたいな?」
「これは・・・」
「俺らは大層な鎧なんてつけないんでわかんないんですけど、どうですかね。高く売れるんなら軍資金に・・・」
「失礼。ああ、孫呉のものではありませんね。それに随分と傷んでいる。転用できる部分もなさそうですし、残念ながら下取りする物好きな商人はいないでしょう」
「なーんだ。んじゃどこかに捨ててくるか!」
「・・・いえ、その必要はありません」
「姐御? うわっ姐御、顔が泥だらけ! お、おい、何か拭くもの拭くもの!」
「ばっ馬鹿野郎! 姐御のきれいなお顔に俺らの薄汚れた下履きなんて被せたら凌統様にぶっ殺されるぞ!」
「凌統殿に知れるまでもなく私が処分しますが」
「「ひえぇぇ!!」」




 あれもこれも、拭って浮かび上がったそれらには見覚えがある。
確かに売り物にはならないだろう。
孫呉では売れないだろう。
だが、渡して喜ぶ者はここではない場所にはいるはずだ。
どこへ行けば良いだろうか。
建業の商人たちは、許昌まで足を延ばす機会はあるだろうか。
凌統は、どこまでの遠征を許してくれるだろうか。
は泥だらけの虎豹騎の鎧をぎゅうと抱きしめた。





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