炎天原へようこそ     4







 が陸遜の名を知ったのは、取り立てて珍しい出来事があったからではない。
江東四姓の代表格陸氏の若き当主が頭角を現している。
そんな当たり障りのない情報を女官仲間や知り合いの将たちに聞いたことが、が陸遜を知った始まりだった。
が陸遜の姿を初めて見たのは、人事異動で念願の閑職書庫番に就いて間もなくのことだった。
書物が好きで書庫番を望んだわけではない。
よほどの物好き、それも月に10人訪れれば多いと言われる知られざる閑職に憧れたのだ。
の家格はそれほど高くない。
豪族の集合体でようやく国としての形を成している孫呉においてそれは、本人は何も思っていなくても色々と面倒なことを招くことがある。
有力豪族の娘はしかるべき将の元で働き、そうでない者はせいぜい小間使いなど、時折露骨な人事配置がなされることがある。
特別愛嬌があるわけでも学があるわけでも友人が多いわけでもないは、それらが煩わしかった。
だから誰もがやりたがらない、けれどもこの上なく暇で勤務中に自分の好きなことができる書庫番を選んだ。
競合相手はもちろんおらず、ってば物好きねうふふふふとからかわれ笑顔で同僚から見送られた。
ひょっとしたら同僚たちも、敵が1人減って清々したとでも心のうちでは思っていたかもしれない。
真実が何にせよ、晴れて公然と自由気ままに過ごすことができるようになったは毎日が楽しくなった。
物好きには同じ物好きが寄ってくるのか、やんごとなき事情で素性が覆われているが身の安全だけは保証されているという友人ができた。
彼女のどこが具体的にやんごとないのかわからないが、誰にも真似できない洗練された物腰と内面から滲み出る品の良さは、孫呉のどこの豪族出身の娘も持ち得ないものだった。
正直、彼女のような抜群の器量良しがなぜ凌統と親しい仲にあるのかまったくもって理解できない。




 が陸遜と係わるようになったのは、この唯一無の親友のおかげだった。
ある日、頼んだ物を忘れるとは本当に使えない方ですまったくとぶつくさと悪態をつきながら現れたのが陸遜だった。
人使いの荒いお坊ちゃまだなと思った。
第一印象からして悪かったわけである。
迂闊に相手をしてこちらに飛び火するのが嫌だったので、気付かないふりをして息を潜めていた。
今思えば、あの時たとえ叱られていようと黙って梯子を渡していれば良かったと悔やまれてならない。
お世辞にも体格が優れているとはいえない彼は無理をして背伸びをした挙句長時間つま先立ちで足がつり、本を掴んだと同時に床に転がり悶え苦しみ始めたのだ。
大笑いとするのを必死で堪えるのは体に悪いと知った瞬間だった。
突然の物音に驚いたという体を装いようやく陸遜の前に姿を現したのだが、向こうも向こうで相当混乱していたらしい。
こちらの姿を認めるなりつった足に鞭を打ち、書庫を一目散に飛び出してしまった。
彼が去った後に笑いに笑ったのはいい思い出だ。
誰もいない書庫だからこそできた大口を開けての大笑いだった。
しかし、事態が怪しげな方向へ向かいだしたのはちび足つり事件(この時はまだ名前と顔が一致しなかった)の翌日からだった。
友人からもらった手作り肉まんをおやつにのんびりと縫物をしていたところに、ちびが現れたのだ。
私のあれを他言していませんかと執拗に尋ねられ、そのたびに喋っていないと言い返すのは非常に腹が立った。
何度も同じことを言わせるなと実際に口走った気がしないでもない。
しかし相手は口先では納得できなかったのか、忙しいだろうに連日ここを訪ねてはじっと観察されるようになった。
あまりの態度に耐えかね友人に愚痴と窮状を訴え、その時初めてちびが陸遜だと知った。
知ったと同時に陸遜が嫌いになった。
向こうはそうではないようだが、こちらは大嫌いなのであちらの考えはちっとも関係ない。
合わせてやるつもりもない。




「・・・思い出しただけで腹が立つ。気が落ち着く薬でもいただいてこようかしら」




 今日もどうせ、あの人以外は来訪者はいないだろう。
は身支度を整えると、典医の待つ医務室へと向かった。







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