炎天原へようこそ     5







 気が楽になる薬を典医から受け取り、帰り道に食堂でおやつをつまんでいく。
今日もいつも通り暇だった。
これから先も暇だろうから、繕い物は今日で終わりそうだ。
友人は育ちの割になんでも卒なくやってのけるが、繕い物だけはあまり好きではないらしい。
好きでないと言っても平均以上の出来に仕上げるあたりは彼女の器量の良さを感じさせられるが、これはこちらの方が得意だから代わりにやっている。
わたくしも朱色を入れたいのですと品の良い金糸の入った布を胸に抱き話していた時の友人は、それはもう乙女だった。
聞けば恋人に選んでもらったらしい。
あの将軍女への贈り物に慣れてそうだもんなとは、友人の笑みを曇らせてしまいかねないので口に出さなかったが。
は籠におやつを詰められるだけ詰め込むと仕事場へと足を向けた。
がやがやと外が騒がしい。
火の手がだの水がだのと文官たちがおろおろしている。
何が起こったのかさっぱりわからない。
は顔見知りの女官を捕まえると事の次第を尋ねた。





「あっ、無事だったの!?」
「うん? 何かあったの?」
「書庫が燃えてるの! 間諜がそこに逃げ込んだらしくて、追い詰められて書庫もろとも火の海にって・・・」
「そう、いなくて良かった。・・・いや、でも・・・あ」





 の脳裏に友人の嬉しそうな顔が蘇る。
殿が作って下さるのならば必ずや素晴らしいものができましょうとにこやかに話していた友人に、そこらの仕立て屋よりも立派なものを作るわと豪語していたことを思い出す。
書庫は燃えてもいいが、あの布だけは燃やしてはならない。
あれ以外にも家から持ち込んだ内職用の繕い物があるし、宮中で最近流行りに流行っている物語も置きっ放しだ。
取りに帰ろう。
ささっと入ってさっさと出てこよう。
は同僚に籠を押しつけた。
どこ行くのと叫ぶ同僚の声を無視して、は職場へと足を急がせた。





































 うずうずうずうず、がたっ。
もう我慢できない、今すぐにでも出て行きたい。
陸遜ががたりと席を立つと出口へと向き直った。
やはり一日に一度はを見ていなければやる気が出ない。
たとえ無視をされても冷たい応対しかされなくても、姿を見るだけで満足できる。
我ながら清廉な男だと思う。
世が世であれば聖人君子になれたかもしれない。
どこへ行くかも教えず行ってきますとだけ告げた陸遜は、ざわついた回廊に眉をしかめた。
勤務時間中に浮き足立つとは何事だ。
羽を外すのは仕事が終わってからにすべきだ。
大きく咳払いして早足で歩き始めた陸遜の耳に、炎という単語が入ってきた。




「追い詰められ火をかけるとは愚かなことよ」
「・・・少しいいですか」
「は、はい!」






 ひそひそと話し合っていた若い文官に声をかける。
年下とはいえ位は格段に高い陸遜に不意に声をかけられた文官たちが彫像のように固まる。
人はと尋ねると、文官たちはほっとした表情になり口を開いた。





「曹操の手の者が潜んでいたようです。正体が知れた奴は外れの書庫に立てこもり火をかけたとか・・・」
「書庫・・・?」
「逃げられないと悟り、せめて書簡を道連れにとでも思ったのでしょう。ですがあそこは物置同然、我らに被害はありますまい」
「本当に書庫なのですか? 中央ではなく外れの書庫で間違いありませんか!?」
「え、ええ」





 書庫はいくらでも燃えればいい。
あれらは書けばいくらでも再生産できるので焼失したところで気にしない。
しかしに替えはない。
焼け死んだはまた作れない。
日がな一日あそこにいて、時々居眠りすらしてしまうは不届き者が忍び込んだことに気付いていないかもしれない。
気付いた時にはもう既に遅く、人質に取られ身動きが取れなくなっているかもしれない。
はただの女官だ。
武器も手にしたことはないはずだ。
非力なが敵と戦う術はない。
すぐに助けに行かなければ。
陸遜は戦場さながらの速さで書庫へと駆けだした。




































 燃えている。
いつもは静かな書庫がごうごうと音を立て明るく燃えている。
は漂ってくる煙の臭いを遮るべく袖で口元を押さえた。
急遽結成された消火隊が消火活動を行っているが、油に火が燃え移ったのか勢いは増すばかりだ。
は消火隊の1人に近付くと怒号に負けない大声で呼びかけた。





「火はあとどのくらいで消えるのでしょう?」
「さあ・・・。本ばかりで書庫自体も古いし、ネズミもろとも焼け落ちるのを待った方が速いかもしれない」
「困ります、ここは私の職場です。今すぐ消して下さい」
「中にネズミしかおらぬのなら尚更焼け落ちても問題はなかろう。致し方ないと殿も仰せだ」
「そんな・・・! では私はいったいどうすれば・・・」
「新たな仕事が与えられよう。中におれば命を奪われていたやもしれぬのだからそう怒るな」
「・・・どの殿方も本当に使えない!」





 はいっぱいに汲まれた桶を持ち上げるとよろめいた足取りで入口へと近付いた。
何をするつもりだやめろと停止を求める声には耳を貸さず、入り口から中へ向けて桶の中身をぶちまける。
火の勢いが少しだけ弱まったような気がする。
入るなら今しかない。
は身を屈めると業火の館へと足を踏み入れた。







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