炎天原へようこそ     6







 容赦なく燃え盛る書庫の中を慎重に進む。
うっかり触れてしまった柱が黒い焦げていて熱い思いをしたため、頼るものが何一つとしてない赤い世界をよろよろと歩いている。
勝手知ったる空間が、炎に包まれた今はまるで未知の世界だ。
どこの馬鹿だか知らないが、とんでもないことをしでかしてくれたものだ。
間諜がどこで死のうと関係ないが、死ぬのであれば他人に迷惑をかけず逝ってほしい。
はようやく仕事部屋に辿り着くと、辛うじて炎が届いていなかった内職道具の数々に手を伸ばした。
良かった、灰にはなっていない。
布切れや本を両腕に抱え、来た道を引き返すべく踵を返す。
がたりとどこからともなく物音が聞こえ、体がびくりと跳ねる。
ぎぎぎぎと建物が軋む音に敵襲の予感を察知する。
戦場で戦ったことはないが、味方にはならないおよそ敵に近い存在には常に脅かされているので感覚は他の女官仲間たちと比べたら鋭い方だと思う。
早く逃げなければ。
襲われても交戦できるだけの力も武芸も持ち合わせていない。
こんなことになるのであれば、友人から護身術でも学んでおくべきだった。
人は、本物の恐怖を前にすると意思と反して体が動かない。
は迫りくる熱気を避ける術もなくその場に立ち尽くした。
先刻から感じていた熱気の更に上を行く気迫に気圧され、体が横に飛ぶ。
馬鹿ですかあなたはと怒鳴りつけられ、馬鹿ではないととっさに反問する。





「馬鹿しかこんな所には来ません。・・・私はどうやらあなたを買い被っていたようです」





 私を騙したこと、後で謝罪して下さい。
凶刃ではなく焼け落ちた天井からを守るべく飛び出し横抱きにしたまま転がった陸遜が、笑顔ひとつ零さず冷やかに言い放った。






































 制止を聞かずに単身書庫へ突入した女官がいる。
惚れ惚れするほどに燃え続けている書庫の前で消火隊から報告を聞いた陸遜は、怒りと絶望で目の前が真っ赤になった。
この世のどこに炎の中に飛び込む奴がいるのだ。
死ぬ気で身投げするのであれば止めはしないが、忘れ物を取りに戻るためだけに命を危険に晒す馬鹿がどこにいるのだ。
馬鹿の尻拭いをするのはいつだって真面目に生きている人々だ。
馬鹿のおかげで馬鹿を見るのはいつもこちらだ。
自分が好きになった娘は馬鹿ではなくてこちら側の人物だと思っていたのだが、どうやら思い違いだったらしい。
陸遜は消火隊から桶を引っ手繰ると頭から水を被った。
馬鹿には後でみっちりと説教をしなければならない。
幸いにも彼女はこちらを騙すほどには知恵があるから、一度の説教で言うことを聞き改心するだろう。
燃えるような恋は好きだが、燃え尽きてしまう悲恋は嫌いだ。
大きく深呼吸して、通い慣れた入口から侵入する。
ほぼ毎日通い詰めた場所の道だから、多少炎で目くらましをされていても大体の構図はわかる。
忘れ物を取りに行ったのであれば、彼女もきっと中央の仕事部屋へ向かっているはずだ。
床に散らばる燃えかすを蹴飛ばし部屋の入口に立った陸遜は、机の前で立ち竦んでいるを見つけようやく引き締め続けていた顔筋肉を緩めた。
良かった、無事だった。
ほっとして声をかけようとした陸遜はみしりと音を立て今にも崩れ落ちようとしている炎に包まれた天井を見上げ息を呑んだ。
天井がを殺そうとしている。
慌てて名前を呼ぶが、の反応はない。
恐怖に思考が停止してしまったのか、微動だにしない。
が動くよりも先に、天井が降ってくる。
目の前でが死んでしまう。
また、大切な人が死んでしまう。
陸遜は、自身もまた大切な人を失うかもしれないという恐怖により硬直していた体に檄を飛ばした。
見えない枷が外れ、体がの元へと舞うように飛ぶ。
を胸に抱き込み横飛びの勢いのまま棚に激突した陸遜は、痛みを堪え馬鹿ですかあなたはと声を荒げた。
馬鹿ではないと相変わらず可愛くもない返事を返され、心の中に安堵と怒りが生まれる。
無理やり体を動かされたことによりようやく我に返ったのか、がもそりと体を起こす。
の腕に大事そうに抱えられた本と布の山に、げっそりする。
こんな物を取りに戻るために命を賭けたというのか。
こんな物を取りに戻るために炎の中へ飛び込んだ馬鹿のために命を賭けたというのか。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
陸遜は立ち上がると、痛みに思わず顔を顰めた。





「あなたのせいです。殿が馬鹿だから」
「馬鹿はお嫌いでしょう? すぐにでも愛想を尽かして下さいな」
「・・・こうすることで私の思いを断ち切ろうとするのも策だというのであれば、そんな策は効きませんよ」
「そうですか」




 は紛れもない馬鹿だ。
しかし、馬鹿でも好きだ。
が命を賭けるほどに大切な存在になりたくてたまらない。
腕の中のあれらのように大切にされたい。
陸遜はが立ち上がったことを確認すると、出口を指差した。
誰にも邪魔されないここで仲睦まじくなるのもいいが、少々呼吸が苦しくなってきた。
それに、書庫の中のネズミの死を見届けておかなければ後々が不安だ。
こちらには知られてはまずそうなあの子もいることだし。




「今すぐここを去りなさい。ここは私に任せなさい」
「陸遜殿は? まさかここで火計の勉強でも?」
「そのようなものです」
「それは怪我が癒えてからにしても良いのでは? 馬鹿を守るために体を痛めるなんて馬鹿みたい」
「ええ、私は紛れもない馬鹿です。・・・大丈夫です、火計好きは火に強いですから」
「・・・陸遜殿って本当に」





 馬鹿みたい。
馬鹿のために命を張るなんて、あなたの方がよっぽどの馬鹿。
は陸遜の背中に向かって小さく頭を下げると、今にも崩れようとしている出口へ駈け出した。







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