炎天原へようこそ     7







 とんだ見当違いだった。
そんじょそこらの女官たちとはまるきり違う思慮深い娘だと思ったから惹かれたのに、好きになった女は単身炎の中へ飛び込むような馬鹿だった。
人の上に立つ職に就き、人を見る目もいくらか養われただろうと自信を抱いたのも束の間のことだった。
より馬鹿なのはどっちだ。
陸遜はぼそりと呟くと自嘲の笑みを漏らした。
馬鹿を助けるために炎の中まで追いかけたこちらの方が、が言うとおり更に上を行く馬鹿だと思えてきてならない。
馬鹿は嫌いだ。
頭は弱いしやることなすこと鈍重で生産性がないし、口を利かずとも視界に入れただけで苛々する。
そんな大嫌いな馬鹿を追いかけていたとは、もしかして馬鹿は伝染するのだろうか。
が馬鹿であると気付かぬままに彼女の姿を目で追い足で付きまとい一方的に話していたから、の馬鹿が伝染してしまったのかもしれない。
孫呉の次代を担うと噂されている青年軍師も、遂に本性を現したのか。
今夜か明晩あたり甘寧と凌統が酒の肴にがやがやと話していそうで、それも気に喰わない。





「・・・しかし、いっそ馬鹿だと思った方がここにいる理由もわかりやすい。止めは私が刺してあげますから大人しく灰になりなさい。ここにあなたが捜している姫君はいない」




 同僚と情を交わし身も心も亡き母の祖国に染まり直そうとしている意外に逞しい敵国の姫君をくれてやるほど、孫呉の人材は豊富ではない。
女性であろうと元公主であろうと、こちらに手を貸してくれる存在は仲間だ。
陸遜は剣を密偵の胸に突き立てると、窓に向かって突進した。
































 余計な気を回してしまった。
お節介を焼かずとも稀代の若き軍師の屋敷には清楚で可憐な同居人の親友を初めとした下女たちがいて、わざわざしがない一介の女官ごときが出る幕はなかったのだ。
は困惑した表情を浮かべている親友に疑問をぶつけた。





「凌統様の想い人がどうして陸遜様のお屋敷に?」
「詳しくはお話できない理由があり、今は陸遜殿のお屋敷の離れに住んでおります」
「へえ・・・・・・」
「ですが勘違いはなさいませんように。わたくしとは顔を合わせれば常に決闘を挑まれるような仲ゆえ」





 本当に困ったお方です、無茶ばかりしてこれでは呂蒙殿にもご迷惑をおかけしてしまいます。
心底困った様子で話す友人に案内され陸遜の寝所へと向かうと、額に布を当てうんうんと唸っている家主と出くわす。
火傷でもしたのか白い肌は赤く染まり、暑苦しそうな息を吐いている。
医者に話によれば熱がなかなか引かないとのことらしく、夜な夜な呻き苦しんでいるという。
軍師の癖に無鉄砲で猪突猛進な陸遜が苦しんでいる。
散々馬鹿と罵った女のために苦しみ、熱を出して臥せっている。
臥せっていても陸遜はうるさい。
寝ている時くらいは大人しくしていればよいものを、苦しげな息を吐いては自分の方へと視線を引きたがる。
同じ炎の中に飛び込み片や元気いっぱい休職中、片や臥せっているとはこの違いは何だろうか。
戦場に出るなどして体を鍛えている分陸遜の方がしぶといはずなのだが、やはりちびだから体も案外脆かったりするのだろうか。
馬鹿はどっちだと思っているんですか。
陸遜を恨めし気な目で見下ろしながら小声で呟くと、陸遜の額に載せた布を取り換えていた友人がどちらも馬鹿ですと答える。
上品な言葉遣いをする出生不明の生粋のお嬢様から馬鹿というお世辞にも美しくな言葉を聞き、は吹き出した。
笑いごとではございませんとぴしゃりと言い放たれ、は思わず居住まいを正した。






「どんな事情があったとしても、炎に身を投げるとは無謀でございます。炎はすべてを飲み込む恐ろしいものなのです」
「恐ろしいおかげで我が国は曹操に滅ぼされなくて済んだのだから、良くも悪くも怖いわね」
「・・・燃え盛る火炎は天をも焦がし、煙は見たいものを遮ります。陸遜殿は見るべきものを見失わなくてようございました」





 わたくしは少々疲れました、殿しばらく陸遜殿を看てはいただけませんか?
使い走りのような仕事をしている友人はなかなかに忙しく、看病の時間すら惜しくなるほどに仕事が溜まっているのかもしれない。
彼女に比べるとこちらは気楽なものだ。
職場が全焼したおかげで行く場所がなくなり、新たな職務も未だ与えられていない今は暇を持て余している。
宮仕えは好きではないのでこれを機に辞めようかとも思ったのだが、辞めたところで次の食い扶持の当てがあるかといったらあるわけがない。
また、働かずして暮らしていけるほど裕福でもないので結局女官を続けるしかない。
書庫の仕事も暇だったが、数日前と今では同じ暇でも感覚が少しだけ違う。
暇が少々嫌になってきた。
まあなら次の職もすぐに見つかるよーと仕事の合間に語り、そして仕事に戻っていく同僚たちを見ていると妙にむずむずする。
は友人から譲られた胡床に腰を下ろすと、じっくりと陸遜を見つめた。
暇で退屈だったはずの時間が思ったよりも暇と感じなかったのは、いつ現れるともわからない目の前の不審者に警戒していたからかもしれない。
そうだ、きっとそうに決まっている。





「私はやっぱり陸遜殿が嫌いです」




 は顔をしかめ独りごちると、冷えに冷え切った氷嚢を陸遜の額に押し当てた。







分岐に戻る