炎天原へようこそ     8







 母の温もりはあまり知らない。
母どころか家族との日々や温もりも、人に語れるほどは知らない。
本当の本当に幼かった頃は母に甘えていたが、何も考えなくていい幼少時代はあっという間に終わってしまったので温かさが体に残っていない。
知らない温もりを求め、炎という熱い存在を操ることに憧れたのかもしれない。
これが全身を包み込む温かさか。
落ち着くどころか、肌が焦げてしまうのではないかと不安になってしまうくらいの熱さに心臓が暴れている。
わずかに覚えている母の温もりはもっと優しく柔らかなものだったと思うのだが、所詮は年端のいかない子どもの記憶、捏造されている可能性も大いにある。
陸遜は初めて火計に遭う苦しさを知った。
炎の包まれると人は簡単に狂気に染まるというが、なるほど確かに身を捩ってもがいてでも逃れたい地獄だ。





「熱い、熱い・・・」
「また呻いてる・・・。火傷でもしたのかしら・・・」






 氷嚢を取り上げ、額に浮かんでいた汗を拭ってやる。
赤の他人とはいえ、自分が馬鹿なことをしたがゆえに引き起こしてしまった陸遜の昏倒なのでぞんざいな扱いはできない。
本当は触れることすらしたくないが、迷惑をかけてしまった張本人として後ろめたい部分もあるので大人しく看病している。
熱は依然として引かず、浅い眠りを続けているのか陸遜は今も時折呻き声を上げる。
喉が渇いたのか口が動けば匙で水を注いでやりと、まるで赤子か植物の世話をしているようだ。
は汗を拭った布を冷えた水で洗うと、再び陸遜の顔に当てた。
冷たさが心地良いのか、布を当てている時は心なしか陸遜の呼吸が安定する。
薬師でも医者でもないただの求職者にできることは少ない。
枕元に大人しく座り、たまに布を変え汗を拭いてやるくらいのことしかできない。
大きくて厄介な仕事は好まないにとって陸遜の看病は辛すぎず暇過ぎない仕事だったが、病人の容体は一向に快復に向かわないので看病のやり方が悪いのではないかと我が身を省みてしまう。
どうすればもっと陸遜は安らかに眠れるだろうか。
食事をさせなければ体は衰えていくばかりだし、とりあえず一度まともに起きてほしい。
孫呉の次代を担う稀代の軍師がこんな所でくたばってもらっては困る。
にとって孫権が治めるこの国は絶対的なものであり、国がなくなった世界を考えることはできなかった。
国がなければ今度こそ本当に仕事を失い、特別裕福なわけではない我が一族はたちまちのうちに路頭に迷う。
は陸遜個人のためというよりも、国のため、もっと言えば自身の身の安泰のために陸遜を見舞っていた。
つくづく可愛げのない女だと思う。
この心中を知ればさすがの陸遜もこちらから手を引いてくれること請け合いだ。





「・・・陸遜殿、ひょっとしたら顔以外も汗をかいているから熱が引かないんじゃない・・・?」





 布団に包まれた首以下を見つめ、は小さく唾を飲み込んだ。
嫁入り前の妙齢の娘で武芸とは縁遠い職場にいたは、男の体に免疫がない。
下女たちに任せればいいとわかっているのだが、それをやってしまうとここまで黙々と文句も弱音も吐かず看病してきた自身の意思が歪んでしまいそうで癪に障る。
やるしかない。
やってやろうじゃないか、はしたなくなどない。
は腕まくりをすると布団を一気に捲った。
胸の合わせ目を寛げると、危惧していた通り汗ばんだ胸板と出くわす。
細身だがしっかりと鍛えられている体がほんの少しだけ眩しく見え、は思わず目を細めた。
ところどころにある矢傷や刀傷は痛くないのだろうかと複雑な気分にもなる。
人の尻を追いかけてばかりいる色ボケ軍師だと思っていたが、武人としてやるべきことはきちんとやっていたらしい。
こんなに小さくて細い体なのに人の倍以上働いて努力して、陸遜殿って意外といい人だったのかな。
ぽそりと呟きそろそろと肌の上に布を這わせたは、不意に手首をつかまれ動きを止めた。







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