炎天原へようこそ     9







 動くなら動く前に動くと言ってほしい。
目覚める気配が一向にないのであれやこれやと甲斐甲斐しく尽くしてやっていたのに、目覚められたらやる気が失せてしまう。
は、腕をつかんだきりまたもや動かなくなった陸遜を見下ろした。
つかんでいる腕がとても熱い。
まだ熱があるのだろう、こちらを黙って見つめてくる目も少し潤っている。
は自由が利く腕で陸遜の衣服を整えると、努めて冷やかに何かと問いかけた。





「・・・何をしていたのですか?」
「見ての通り、看病を」
殿の意思で?」
「そうでなければこのような所には来ません」
「・・・なぜ、と伺ってもいいでしょうか」
「頼まれたからです。それに、私にも罪悪感はあるので」





 異性に触れられることに免疫がないばかりにやたらとうるさく鳴り始めた心音を聞こえないふりをして、淡々と質問に答えていく。
いつになったら手を離してくれるのかと気になって仕方がない。
早く離してほしくて少しだけ手を動かすと、より強く握られる。
ええい鬱陶しい。
は病人陸遜をきつく睨みつけた。





「いい加減離してくれませんか」
「嫌です」
「困ります、やめて下さい」
「困らせたいんです」
「迷惑です」
「迷惑は今までもかけてきたのでもう慣れた頃でしょう。・・・知っています、本当は気付いていました。殿が私を嫌っていること」
「知っていたのにあんなことをやったんですか」
「はい。軍師というのは意外と嫌な役回りばかりをするもので、人が嫌がることを読んでやらなければならないんです」
「では、私はあなたにとって倒すべき敵ってことですか」
「それは違います。殿はそのくらい本腰を入れなければ勝てない手強い相手だったということです」






 殿にはわかりませんかねと苦笑交じりに言われ、かちんとくる。
陸遜が思っている通り、こちらは戦略についての知識は微塵もない。
国の中で誰がどの程度の階級にいるのかもよくわからないし、難しい制度は知ろうという気すら起こらない。
自国のことすらわからないのに、他国との交渉事など話されてもわかるはずがない。
は隠すことなく顔を歪めると、乱暴に腕を動かした。
これ以上つきまとわれたら、唯一使いこなせる凶器包丁で腕を斬り落としてやりたい。
は依然として離れない腕に包丁を振り下ろすと決めた。





「しつこい男は大嫌い」
「しつこくなければ殿は私のことを好きになりますか? ならないでしょう、だったら尚更手を引きたくない」
「人のことを散々馬鹿と罵った男なんか好きになるわけがない」
「それには私も正直驚きました。私は馬鹿が大嫌いなんですが、まさか殿が馬鹿だと知った後でも好きでい続けるとは思いもしませんでした」
「それは陸遜殿も馬鹿だからでしょう。本当に馬鹿みたい、怪我を覚悟で火の中に飛び込むなんて」
「お互い様でしょう。私も殿も」





 馬鹿だから、時に突拍子もないことをやってしまうのです。
陸遜はぽそりと呟くと愛おしげにの手を撫でた。
もしもが人を見て態度を変えるような馬鹿ではない女だったら惹かれなかった。
口も勤務態度も頭も悪かったから、飾るということを知らないを好きになったのだと思う。
素直に嫌ってくれる人を好きになったのが運のつきだった。
何をどうしても報われない恋路に足を突っ込んだ時点で、勝ち目のない戦いだったのだ。





「私は馬鹿だ。こんなに嫌われてもなお、殿が好きでたまらない」
「変な趣味」
「そう言われても嬉しいとすら思ってしまいます。言葉をかけてもらう幸せを感じています」
「本当に気味悪い」






 罪悪感を簡単に抱いた私が馬鹿だったわ。
妙齢の女性ならばまずしないであろう人前での舌打ちを堂々とやってのけたが、ぷいと顔を背けた。







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