氷天楼にご案内     2







 出仕拒否をしたのは2回目だ。
初めての時はその後が面倒だったので二度とやるまいと誓っていたが、本日めでたく2回目の出仕拒否だ。
今日はやめておいた方がいいと忠告してくれた友人には感謝してもしきれない。
何も考えず惰性で向かっていたら、今頃首を刎ねられていたかもしれない。
少し大げさかもしれないが悲しいかな、自分が関わるとあの男はほんのわずかなことでもたちまち大事件にしてしまうのだ。
要らぬ勘違いをした挙句、周囲に多大な迷惑をかけてしまうという危険もまるで無視して突き進んでしまう。
良くないところだと思う。
諌めないといけないと思う。
正しさは必ずしも正義ではないと知らなければ、いつか酷いことになると思う。
諌められないのは、彼のことをただの一時的な上司としてしか見ていないからだ。
それ以上の深い関係になるつもりは今のところない。
仮に当人たちがなりたいと望んだところで、それがすんなりと叶うような世界ではない。






「ごめんなさい、私のせいで迷惑をかけてしまって」
「いいえ、わたくしの方こそ差し出がましいことをしてしまったのではないかと案じておりました。ですが昨晩の陸遜殿は大いに荒れておられましたゆえ」
「凌統様の屋敷を何だと思っているのやら、あの人は。呑み屋じゃないのに」
「甘寧殿が亡くなられて、公績殿もお寂しいのです。陸遜殿がいらして下さる時はとても楽しそうで」




 だからといって通い詰めるのはまた別の話だ。
あの男が凌統邸に赴くことにより、友人の穏やかな日常は確実に削られている。
なぜだかまったく知らないが、陸遜と友人の相性はあまり良くないらしい。
やんごとない事情があるにせよ一時期は陸遜付きの手伝いをこなしていた彼女が陸遜を嫌っているようには見えなかったので、恐らくは陸遜の独り相撲だと思う。
苦手な女性がいる家に呑みに出かけているとは図太い神経をしている、心配して損をした。
あんな男と一緒にいては、こちらも図々しくふてぶてしい女になってしまう。
やはり早急に人事転換をしてもらわねば。
後任など知ったことか、陸遜の元で働きたい娘などごまんといる。
その現実も、にとっては今の職務を居心地の悪いものにしていた。






「ねえ、私に向いてる程良い閑職ってないかしら」
殿はとても優秀な方だと伺っております。いずれの任務であれご立派に果たされましょうに、何故そのように・・・」
「孫呉の成り立ちってとても厄介じゃない? いらぬ火の粉は被りたくないというか・・・」
「公績殿は気にされませんが、陸遜殿も」
「将軍たちは選ぶ方だから。選ばれる方は割と面倒事もあったりして、みんながそうという訳ではないけど、それでもやっぱり巻き込まれたくないじゃない?」




 友人はきっと、わかっているようでわかっていないだろう。
素性が知れずとも、友人はこちらとは比べものにならないくらい大層な家の出のはずだ。
物腰の柔らかさや言葉遣いは付け焼刃の教育で身につけられるものではないし、時折見せる苛烈な立ち居振る舞いは陸遜たちに通じるものもある。
どのような生き方をすれば彼女のようになれるのかと考えたこともある。
教えを受けたこともある。
けれども、いずれも自分のものとはならなかった。
持って生まれたものがそもそも違うのだと実感した。





殿は逃げたいのですか、陸遜殿から」
「後に引けなくなるんじゃないかと怖くなる時はある、このままだと私はきっと流されてしまうから。だから、せめて流される前に間を置きたくて」





 掲示板に張られた求人案内を見ながら、中身を吟味する。
認めるのも癪に触るが、今以上の厚待遇はほとんどない。
肉体労働はできず、兵器を開発できるような頭脳もない。
離宮の手入れや書庫の整理はないだろうか。
ひととおり眺めお目当ての求人情報を見つけられなかったは、同行してくれていた友人を顧みた。
ある一点を見つめたまま、顔色を曇らせている。
何か物騒な求人でも見かけたのだろうか、確かにこの国は酒宴の不始末による決闘の仲介など血なまぐさい募集もあるにはあるが。
友人の視線の先を追ったは、ぱあと顔を輝かせた。
しかも急募、即日採用だ。





「すごい、すごいわ! 初めて見たわ、これはきっと天啓なのね!」
殿いけません、危険すぎます」
「乱世ってすごいわ、まさかこんな重大かつ誰もやりたがらないような任務がそこらの求人案内に載っているのだから!」
殿」
「大丈夫よ、さあ早速応募してしまいましょう! まさかないとは思うけれど、変わり者が他にいてはいけないもの」




 やりたがる人がいるはずがない。
何が起こるかわからない以上、どの家の主人も娘を差し出しは住まい。
ただの閑職ではない、あまりにも無茶が過ぎる。
もし何かあればどうするのだ、臣下が帝に意見できるわけがなかろうに。




「陸遜殿にお伝えしなければ・・・」




 には悪いが、今回ばかりは見過ごすわけにいかない。
逃げたいにしても他に逃げ場はあるはずだ、凌統に頼んで旧甘寧軍の子分たちの世話をさせる方がよほど安全だ。
独りぽつんと取り残された憂い顔の佳人は、小さくなっていくの背中を見送るとため息をついた。

































 たまには役に立つ遠縁の娘だ。
陸遜はどうにもあと一歩のところでついぞ歩み寄ることができなかった同僚の想い人の進言に、静かに机を叩いた。
この職場を嫌がる理由はわかっているつもりだ。
そんなものは関係ないと言いたいが、それで丸く収まらないのがこの国の環境だということも同じくらいわかっている。
面倒で厄介と言い切るのも無理はない。
思い当たる節もあるにはある。
我が血縁の何某という娘を側仕えにさせてくれぬかと直に頼まれたことも一度や二度ではない。
利殖に励む暇があるのなら仕事をしろと何度怒鳴りそうになったことやら、数えるのをやめた。







「なぜ止めなかったのです、あなたが一番危険はわかっているでしょう」
「無論止めました。けれども殿の意志は固く・・・。申し上げにくいのですが、そうまで思い詰めるよう至った原因は陸遜殿にあるのではございませんか」
「申し上げにくいと言い置きながら、躊躇わず率直に言うのはやめていただけませんか。・・・まあ、部下との意思疎通にはいささか悩んでいましたが」
殿は思慮深いお方です。いかにかの任務が殿のお気に召す閑職であろうと、平時のあの方であればあのような決断をなさるとは思えません」
「確かには計算高い方だからな。ははっ、陸遜随分なあしらわれようだな」
「そもそもあなたのせいでこのような事態になったのですよ、朱然殿。いつの間にいらしていたのですか。彼女の後をつけているのなら凌統殿に通報しますよ」
「先程お会いしたのです。殿にもお会いしたいとのことでしたので・・・。公績殿にはわたくしから話しておくのでご安心下さい」
「良かったですね朱然殿、夫君公認の逢引きなんて燃え尽きるおつもりですか」





 昨日のの捨て台詞が脳裏に蘇る。
嫉妬の炎で全身焼けそうだ。
陸遜は思い出したくない思い出をごくりと飲み込むと、当たり前のように不在のの席に腰を下ろした朱然を見据えた。
この男、何も勘付いていやしない。
今日もでれでれとほぼ人妻の女性に熱を上げて、というものがありながら! いながら! 腹が立つ!
まずはこいつを消し炭にしてやりたい!





「・・・で、俺のせいとはいったいどういうことだ? 生憎だがまったく心当たりがない」
「昨日、殿とちょっとした行き違いから仲違いをしました」
「いつものこと、という認識で合っているか?」
「その際殿の口から出てきたのが朱然殿、あなたでした。殿はあなたのことを義封殿と呼んでいましたが、いつの間にそのような関係で?」
「それは、今回陸遜たちが密談している内容に関わりがあるのか? 惚れた女の昔話なんてどうでもいいし、できればつついてほしくない・・・ですよね!」





 朱然からにこにこと屈託のない笑顔を向けられた夫人が、仰る通りですとこれまた柔らかく微笑み返す。
先の戦いで朱然も『知ってしまった』側なのだろう。
知った上で、愛する人がいるとわかっている上でなおも慕い続ける彼には感心すらする。
見返りもないのに。何をしたって振り向いてくれないのに。
ただの肉まん好きの火計好きとしか認識されていないのに。
朱然は出された茶を一気に飲み干すと、真面目な顔つきに戻り陸遜と呼びかけた。
先程はああ言ったが、原因がまったくないわけでもない。
今の彼女の閑職偏愛を生み出したきっかけは間違いなくこちらにある。
恨んでくれていても良さそうなのに、相変わらずの調子で接してくれるのはとても嬉しい。
だから、今度はきちんと守らなければと思う。
そこまで突飛な転職をせずとも生きやすいのだと教えてやらなければ、今は良くても次は山越族の元へ行くなどと言い出しかねない。





が面倒を嫌がる性格になった責任は俺にもある。でも、それと今回の件は別の話だ。は仕事はできるし、このままだと取り返すかも。そしたら燃える展開だと思わないか?」
「・・・伏してお願いすることもやぶさかではないのですが部屋をまるごと爆破する手段、同族の誼で教えていただいても?」
「わたくしと陸遜殿はほぼ他人でしょう・・・。それにわたくしは、この国では使えません」
「湿気た答えですね、面白くない」





 今更を手放しなどするものか。
即日採用の任務とやらも、いざとなればは不適格とでもやんわりと伝えれば選抜はされるまい。
この時の陸遜はまだ、この国のいざという時の人事異動の迅速さをまだ知らなかった。







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